ボクの持っているこのメモ帳はボクの脳髄と似たような役割を果たしていて、後頭部の裂溝と側頭葉の間に発生する化学反応の結晶。即ちこれはボクの記憶であって、ボクの記憶はボクではない、このメモ帳によって保存されている。
 ボクは、記憶はできないが、記録することはできるんだ。




「白紙のメモ帳」作・сура




 朝、目覚めてボクが一番に感じるのは、「ここ、どこだっけ?」とかっていう訳じゃないんだ。ボクは記憶ができないだけ。これ以上の上書きができないだけで、もちろん日本語だって流暢に話せてるし、自分の名前も分かる。
 でも、今日が何日なのかは分からない。西暦の何年だろう? 何月かもよく分からない。ボクは朝起きるたびに、その事を思い知らされている。 ボクが知っている事実は、『ボクは記憶ができない』ってことと、一九九六年の十一月二十日からいつの間にかそうなっていたってこと。ボクの記憶はその日から進めない。カレンダーを見たら、日付に丸がつけられてるんだ。毎日ね。今がいつか分からないから、一日一日を刻んでおかなけりゃダメなんだ。驚くことに今日は二〇〇四年の十月十八日だ。ボクは八年間も寝ていたって? そういうわけじゃないけど体感的にはまさにそうだ。その間八年間の記憶を、ボクは毎日失っているんだからね。同じことの繰り返しさ。苦痛は感じない。寝ればまったく新しい日だからね。
 ベッドから起き上がって、パジャマを脱いで床に畳まれてる服に着替える。これはたぶん昨日の夜ボクが用意したんだ。分からないけど。誰かがボクのために服を用意してくれたみたいで気分がいいじゃないか。
 服の胸ポケットには、分厚いメモ用紙と、ボールペンが入ってる。これがボクのバラバラになった八年を繋ぎとめているもので、これさえ無ければボクは本当に生きていけなくなる。今までの記録が吹き飛んでしまうからね。
 メモを開いて、今日は何をしなくちゃいけないか確認。一番新しいページが、今日やらなくちゃいけないこと。これは毎日更新されてる。もしさぼったりなんかしたらボクが混乱してしまうからね。


 朝食:向井町八丁目のバス停の目の前にセブンイレブン。買う。
 カレンダーの日付に丸。
 本棚の整理、読むのに夢中にならないよう。


 メモ帳を閉じた。ボクはとりあえず、今日はここに書かれたことをやって、明日のボクに何をさせなきゃいけないか考える。昨日のボクはたぶん本棚の整理をして、読みふけっちゃって進まなかったんだろうかね。
 とりあえず、ボクは上着を羽織って家を出て行った。八丁目のバス停の前にセブンイレブンなんて無い。あそこには中古車売り場があったんだ。たぶん潰れたんだね。
 家を出て、しばらく歩く。ボクは自動車は持ってないし、免許もバイクのしか取ってない。バイクは家にあったけど、もう家には無い。それでなくてもバス停まで歩いて十分だ。ボクはどちらかといえばまだ若いんだし──とはいえ重大なお知らせだが、ボク、いつの間にか三十三歳になってるんだ──それにセブンイレブンができてから、ボクは毎日ここへ通ってるんだろう。メモ帳をさかのぼって読んでみると、今月の一日よりさらに前から通ってる。メモ帳は、わかりやすいように一ヶ月ごとに取り替えてるみたいだ。でもボクにとっては来るのは今日が初めて。
 コンビニに入って、買ったのはおにぎり二つとペットボトルのお茶。見たこと無いお茶だったけど、ボクはそこまでこだわらないから気にしない。昨日は何を食べたんだろう? もしかしておにぎりとお茶かな。ボクにコンビニで朝ご飯を買う習慣は無いし、もし買うとしたらやっぱり一番ボクが食べたいものに行き当たると思うんだ。
 そうだ。財布にお金は入れてただろうか? ボクに仕事は無い。こんな頭じゃ日雇いくらいしか無いしね。基本的にこれ以上何か新しい技術を得るのもできないと思う。それに、ボクが仕事についていたのは二十三歳から二十五歳の二年間だけ。色々と職場でトラブって、自分から辞めてからは無職。あとは親が持ってるマンションの家賃収入を送ってもらって暮らしてる。今もね。親に悪いとは思うけど、仕事を見つけるまでの間だけにしておこうと思ってたんだ。でもその直後にバイクで事故。ケガをした人はボク以外にいなくて、どこかに出かけてた最中、ぶつけた。頭を打ったりしたんだろうけど。よくわかんないんだ。ボクは目が覚めるとバイクに乗ってたはずが、ベッドに横たわってる。今も毎日そうだ。しかし、どこに行ってたのかな。思えばその周囲の記憶もちょっと曖昧だ。そのころ仕事は無いから、おおかたどこかへ遊びに行ったんだろうけど。当時のボクには恋人がいたけど、今はもうあれから八年も経ってる。ボクと彼女が続いている訳がなかった。財布を取り出して中を見る。……中身はだいたい七千円くらいかな。なくなる前に銀行へ行っておかないと大変なことになる。でも、そういう時が着たらメモ帳に書いて明日のボクに知らせるのさ。
 ボクはメモ帳が無いと本当に生きていけないと思う。


 家に帰ると、朝食を済ませてから、本棚の整理へ。
 ボクは記憶を失ってからも何冊か本を買ったんだろう。知らない本がいくつかある。ボクにとっては面白い本が一冊あれば十分。寝れば忘れるし、面白いから一日で読みきってしまう。ボクは毎日、こうして生きてるんだ。目的は、無いのかもね。死なないために生きてる。
 ぐちゃぐちゃになった本棚からとりあえず一段目の本を全部取り出して、並び替える。ボクは基本的に小説かマンガか、あと科学雑誌くらいしか置いてないから、そこは作者や、何月号かの順番に割り振っていく。その途中、見知らぬ小説『メメント・モリ』を取り出して読みそうになったけど、今は我慢しよう。昨日だって読んだかもしれないじゃないか。目的が無いボクでも、日々を螺旋して繰り返すのは怖い。それに気付けないのももっと怖いよね。メモ帳が辛うじて防いでくれている。
 一時間くらいそのまま本棚の整理を続けて、疲れたから今日は一時やめにして、明日に回そう。今日の段階で三分の二は終わってる。本棚から『メメント・モリ』という本を取り出して読み始めた。初めて読むけど、ページが時々折れ曲がってたりカバーの端っこが破けてたりするんだ。不思議な上に不愉快。
 ボクはふと時計を見上げて、今は十一時の二十五分。昼ごはんについて考えよう。またセブンイレブンに行ってもいいが、そんなことしてたらボクはあっという間に生活習慣病で記憶どころの騒ぎじゃなくなってると思うんだ。
 冷蔵庫を開けたけど、ミネラルウォーターと酒と蜜柑しかない。野菜庫もしなびかけたレタスだけだった。昨日のうちになんで書かなかったんだ。しょうがないから再びセブンイレブンへ向かうはめになる。店員にどう思われているかは知らないけど、あと半日も経てば初対面。


 セブンイレブンから出て、パンが入った袋を提げ歩いていると、横を通り過ぎた白いワゴンがクラクションを鳴らして停車した。
 ボクは立ち止まり後ろを振り返ってその光景を見てたけど、バックしてボクの目の前まで戻ってくる。車の窓を開けて出てきた男は、ボクの顔を見た。慌ててメモ帳を取り出す。このメモ帳、表面から読んだら日々の日程。で、裏から読んだら人の写真と、下に名前、詳細。何か分かるだろ? ボクが記憶する力を失ったその後に会った人たちの情報だ。ボクは記憶能力を失くして、社会からも隔絶されたような状態にいる。でも一応交友関係はあって……ああ、あった。目の前の男は、“友達”の欄に書いてある。名前はタカユキとか。
「よう、思い出したか」
 目の前の男は言った。ボクはぎこちなく答える。
「思い出すことはできない。悪いけど今日始めて知った気分」
 そうか、とタカユキは呟くと、ボクは済まなさそうに頷く。どこでどういうきっかけで知り合ったのかな。思ったほど詳しく書かれてない。もしかしたら最近知り合ったばかりかもしれなかった。それか、ボクからしてあんまり友達になりたくないタイプの人だったのかも。
「まあいいや、見かけたから声かけただけだから、別に用は無いんだけど。俺、これから家に帰るところだけどお前は?」
「同じさ。昼食を買いに出た」
 タカユキは納得したように声を上げると、じゃあな、とだけ言って窓を閉め、走り去っていった。
 ボクも再び帰路につく。でもその途中、色々と自分についての交友関係が気になってメモ帳をめくりながら歩いた。見知らぬ顔がいくつも。親しい友人らしき人もいるし、ボクが記憶を失う前からの知り合いである拓也の写真も貼ってる。この場合はその奥さんを覚えとかなくちゃいけないから。続いてめくっていくと、ボクの彼女の写真もあった。ただし、文章を読むと、ボクが記憶を失ってから少しして別れてる。今さら傷つきはしない。当たり前のことで、ボクが今さら友達や彼女を持てるはずも無かった。拓也とも、前と比べてずいぶん会ってないんじゃないかと思う。ただの推測だけど。たぶん当たってる。
 やがて家までつくと、メモ帳を閉じて胸ポケットへしまおうとした。
 でもその前に、ひとつ気になる人物がいたんだ。
 女の人。整った顔で美人だな、とは思ったけど、手を止めた理由はそれだけじゃなくて。ページが異常なんだ。写真の下に書かれた文面。


 ヒラタ ヨウコ
 拓也を通じて知る。
 29歳
 恋? メールアドレス・電話番号裏ページ
 会う
 誕生日=3月18日 血液型O型
 不審? 何故
 疑い、予想通り
 敵
 心を許してはいけない
 怒りと憎悪
 殺せ殺せ殺せ
 行方不明にする。隠す


 ボクはそれを読んで、背筋が凍るような感触を味わった。
 一体どういうことだろう? 始めのうちは……彼女についてと、なんだこれは、ボクは彼女に恋をしてるのか? いやまあ、それはどうでもいい。問題はその後だ。疑いが……予想通りで、敵? 全く意味が解からない。しかも最後には、殺せ、だ。彼女は何者なんだろう。ボクに危害を加えたのか? 一体どういう……?
 ボクは不気味に思いながら、家へ入って、昼食をとった。でもその間もメモ帳を見続ける。この、ヒラタヨウコという女性……、ボクはこの女性を殺したいほど憎んでいたのか? もしくは、彼女がボクの命を狙っているのかもしれない。でも、何のために? 疑問は尽きない。
 ふと、ボクはどこかでこの名前を聞いたことがあるような気がした。
 ボクは記憶ができないから、あるとすれば記憶を失う前に。いつだ? いや、しかしそれは八年前の話だ。別人に決まってる。なんせ名前はカタカナ表記だ。ヒラタヨウコなんてどこにでもいる。そうは思っていたが、ボクはこのヒラタヨウコから電話番号を聞いているらしい。メールアドレスも。
 『メメント・モリ』を投げ出して、ひたすらメモ帳と向き直っていた。電話でもしてみようか? しかし、ここまで敵対しているなんて……。どこまでも思考は尽きそうにない。
 まあ、あくまで確認だ。電話口の向こうからボクを殺すことなんてできないし、ボクも殺したりできない。する理由が書かれていないのは、ある意味助かったかもしれないし、その逆なのかもしれない。電話の受話器を取ると、ヒラタヨウコのページをめくり、その裏に書かれていた電話番号を打ち込んでいく。ボクは息を飲んで受話器の奥で鳴る電子音を聞いていた。
 やがて、その向こうから声がする。
「はい、ヒラタです」
「もしもし、ヒラタヨウコさんです?」
 ボクはまたしてもぎこちなく聞いた。セブンイレブンの前でタカユキと話した時よりも緊張している。
「はい、そうですが」
 その返事が聞こえた瞬間、良くも悪くもボクは決心を決めることになった。
「あのボク、佐伯優二です。あなたとお知り合いの、はずの」
「あ、そ、その、ご無沙汰してます……」
 彼女は言葉を詰まらせた。ボクだってなんて言っていいか分からない。頭の中で必死に文章を整理した。本棚の整理ほど簡単じゃない。ボク、あなたを殺そうとしてるみたいなんですけど、心当たりあります? 聞ける訳ない。それだけで警察に捕まるし、逆だったらどうする? 声を聞く限りそんな印象は受けないけど、ヨウコがボクを殺そうとして、ボクは、やられる前にやろうとしてるだけかも。
「あのですね、その、ボク話したかどうか分かりませんが記憶がもたないんですよ。それでちょっとお聞きしたいことがありまして……」
 ヨウコの返事は聞こえなかった。どうしたんだ?
「あの、もしもし?」
「は、はい、何でしょう……」
 その声は少し震えていた。こうなってくるとやっぱりボクが、ヨウコを殺そうとしてるんだろうか。でも自分を殺そうとしてる相手の電話には普通でないよね。ヨウコはボクの思惑は知らないと思うけど、なんでこう、ちょっと怯えてるんだろう。
「あの、そのですね……ボクと、ヒラタさんはどういったご関係でしょうか? 吉田拓也がきっかけで知り合ったのは知ってますけど……、それ以外のことがよく分からないんですよ。すいません」
「あ、あ、あの……、そうですね……、えっと、会ったのは九月の初めで、あ、今から一ヶ月くらい前です」
 一ヶ月前か……道理で日々の予定のメモ帳に書かれてない。一ヶ月ごとに代えるのも問題があるみたいだ。
 ボクは気を取り直し、思い切って聞いてみた。カマかけるくらいで止めるけど。
「あの……それで……、その、ボクがヒラタさんに何かお世話になったりとか、そういうことは……」
 またしても受話器の向こうが静かになった。もう一度声をかけようとしたところで、ヨウコが喋り出す。
「えーっと、その……、二人でお食事に出かけたこともあったりして、ご馳走になってしまった事もありましたけど、私は、そんなお世話なんて……」
 ボクは溜め息をついた。何をしてるんだ、ボクは。殺す相手に食事をおごってたのか? しかも、聞く限りボクから誘ったみたいじゃないか。最初は彼女に好意を抱いてたんだろうけど、それを覆すほどの事って一体……? だが、どうも聞き出すのは難しそうだ。ボクはちょっと質問を変えることにした。
「あとは……そうだ、あのですね、ボク、記憶を失う前にどこかでヒラタさんとお会いになったことがあったりしましたっけ?」
 彼女は電話の前でボクにも聞こえるか聞こえないかくらいの小さな短い悲鳴を上げた。そしてそのまま黙ってしまう。どうしてこの人はこうもすぐ黙りこくってしまうんだろう。ボクは声をかけようとした。
 だが、よく聞くと、受話器の向こうから彼女の声が聞こえる。しかも、嗚咽しているようだ。一体どうして? 何だって言うんだ。
「あの、どうかしました? 大丈夫ですか?」
 ボクは慌てて声をかけた。もう何が何だかわからない。
 彼女は、涙に濡れた声を上げた。震えて、とても小さい声で。
「……ごめんなさい」


 彼女は、ゆっくりと話し出した。
 時は今から八年前へ戻る。ボクの頭が、まだ物事を記憶する力を備えていた時のこと。ボクには交際している彼女がいた。名前は、由美子。このヨウコと同じく拓也を通じて知り合ったのが初めだった。ボクらは、一九九五年から付き合い始めて、メモ帳によると、一九九七年の二月には別れてる。いや、そんな話はこの際関係無い。ヨウコが言うには、自分は由美子と友達だったという。ボクとは直接会ったことは無いけど、話には聞いていたらしい。
 そして、ボクは泣きながらも話すヨウコを促しつつ話を聞いていった。
 一九九六年、十一月二十日。ボクが記憶を失った日だった。ヨウコは、その日由美子と二人で出かけていた。ボクもおぼろげながらそれは覚えている。ボクは仕事も無いので、相変わらずその日も家にいた。その時、電話がかかってきた。
「あの、佐伯優二さんですよね? 私、由美子の友達のヨウコですけど、今、由美子が急に胸を押さえて倒れたんです! あ、今場所は駅前のカラオケで……早く来てください!」
 今思えば、それは今電話で話しているヨウコの声と同じだったような気がする。
 そして、あの日ヨウコから由美子が倒れたとの知らせを受けたボクは急いでバイクに乗り、その場所まで向かったんだ。事故ったのは、そのカラオケへ向かう途中。
 よく考えれば気付けたはずなのに。ボクは気が動転して、疑うこともなくバイクを駆って行き、記憶を失った。
 その時、裏で何が起っていたか。ヨウコは話し出した。


 二人はカラオケで騒いでいて、少々アルコールも入った所でボクの話になったらしい。由美子はボクのことをヨウコに話していたそうで、それを聞いたヨウコが、とあることを言ったそうだ。
「ねえ、今から優二くんに『由美子が倒れた!』って言ったら優二くん来てくれるかな?」
 由美子は止めようとしたが、ヨウコはそれを振り切ってボクに電話をかけた。
 単純で他愛もないふざけ。それが発端だった。
 その後自分のイタズラが原因でボクが記憶を失ったと知り、ヨウコはひどく自分を責めた。しかし、一人の人間の、いわば人生を破綻させたショックは大きかったらしく、ヨウコはボクに何も言えず黙っていたらしい。だがしかし、転機が現れたのはそれから八年後の話。
 今年の九月、ボクとヨウコは拓也の紹介によって再会を果たし、ボクはまったく気が付かなかったがヨウコはひどく驚いたようだった。そして、あろうことかボクは、別れた由美子の代わりにヨウコに恋をした。そしてボクはしきりに彼女へ近づいていった。
 だがボクは、ある日この事実を知る。
 だが彼女から直接聞いたわけじゃなかった。ボクが話を聞いたのは、全くの偶然。
 ヨウコと拓也の会話を過失によって聞いてしまったらしい。聞いたのは断片的にだが、ボクはそれで彼女に疑いを持ち、やがて拓也から半ば無理矢理に事を聞きだした。そしてボクはヨウコに激しい怒りを覚える。殺そうと企んだ。
 それが、事件の全貌だった。


 話し終えると、受話器の向こうでヨウコは崩れ落ちるように泣き叫んで、何度もボクに向かって、ごめんなさい、ごめんなさいとうわ言のように言っていた。ボクは、そのまま受話器を親機へ戻す。
 部屋に静寂が訪れた。
 ボクは、どうすればいいだろうか? 自分の記憶を、下らないからかいによって奪われた。その犯人に対しどうすればいいだろう。
 だが、今さら彼女を殺しに行くという思いは、浮かばなかった。ただひたすらの絶望感。ボクはしばらく一人で呆然としていた。やがて、冷蔵庫から酒を取り出して、一気に飲み干す。胃の底から吐き気が込み上げ、頭はふらついた。
 忘れてしまおう。
 この忌まわしい記憶を葬り去ってしまおう。ボクにはその方がいいんだ。
 台所のガスコンロの前に立ち、コンロの上にメモ帳を乗せる。そのままガスの元栓を開け、火をつけた。メモ帳は激しく燃え上がり、ボクはそれを黙って眺めている。燃え尽きたころに火を消し、蛇口から水を汲んで燃えかすにぶちまけた。
 ボクはそのままベッドに横たわって目を閉じる。頭の中で、確実に狂気が癌細胞のようにおぞましく膨れ上がっていた。
 だが、そんな記憶も眠れば、すぐに消えてしまう。
 その記憶を呼び覚ます、記録も燃え尽きて灰になった。
 ボクは、生きていけるか?
 記憶を失い、日々螺旋を繰り返して狂気の渦に飲み込まれていくか?
 このまま憎悪に身をゆだね、自ら破滅していくか?
 どちらにせよ、それも消える。
 やがてボクも、ボクの記憶と同じくして。




fin


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