涅槃2








プロローグ  1.  2.  3.  4.  5.  6.  7.  8.  9.  10. 11. 12. 13.  エピローグ





プロローグ


“それは、光を浴びることなく知られることなく我々の住む世界の遥か地下に潜み、今も冒涜的な言葉をわめき散らしながら蠢いている。
こちらは向こうに気付いていない。
向こうもこちらに気付いていない。
しかし、何かのきっかけでそれらは繋がってしまうことがあるだろう。
真実と偽りが螺旋を描き、現実と夢が交差し、見えないことが当たり前だった頃の記憶が遠い過去のものになった時、すでに我々は歪みに巻き込まれているだろう“
……もはや、夢によって回避することさえもできないのだろうか?


 私に向かい、誰かが話しかけている。だがしかしまだ視界はぼやけ、脳も覚醒していない。一体どれほど眠っていたんだ? 全く何も覚えていない。そして……私はいつの間にここへやってきたんだ?
 壁も床も一面真っ白く、ベッド以外の家具は一つも無い恐ろしく殺風景な部屋。ベッドに座る私の前に男は立っている。
「どうだい、目は覚めたかい?」
 男は私に穏やかな口調で話しかけた。
「あ、あの……」
 この男の顔に見覚えが無い。それに白衣を着ているぞ? 何だ? 医者だろうか。
「自分の名前、言えるかい?」
 男は手に持つ用紙を覗き込む。
「……カーター・オーガストです」
「ん? 名前は言えるんだな……」
「あの……ここはどこですか?」
 黙って用紙にボールペンで書き込む男に私は声をかけた。
「……いいかい、落ち着いて聞くんだよ。君は、脳に病気を患ってしまい、記憶を失くしてしまった」
 男は私の顔を覗き込む。
「君は、この治療所でそれを治療しなければならない」
「は!? 何ですかそれ?」私はベッドから立ち上がった。
「大丈夫、落ち着いて。君は、コルサコフ症候群という、まあ記憶障害を起こしてしまっているんだ」
「私は病気なんかじゃない! 記憶は……」
 何も覚えていない。自分の名前は言える。だが……自分の家族も、年齢も、住所も、何もかも、記憶から消え去っていた。
「大丈夫! 治療を続けていればきっと治るさ。君は名前を思い出せたじゃないか」
 呆然とする私に向かい男は話した。
「僕の名前はマイスター。今は……一人になった方がいいだろう? 大丈夫だよ。心配はいらないさ」
 そう言って、マイスターは、私の病室から出て行った。




1.二〇二号室


 医師が出て行った後もしばらく、私はただただベッドに座っていた。私は……記憶を失ってしまった。どうすればいいんだ? この病気は治るのか? 私の記憶は戻ってくるのだろうか?
 やはり……、思い出せるものは何も無い。何か切欠は無いだろうか? 家族の写真とか、そうだ、昔のアルバムとか。言い知れぬ不安感に苛まれながらも、私はベッドの中に潜り込んだ。何だか精神的にもう疲れてしまった。一度眠ろう。目覚めれば何か……


 ベッドに入ってから……多分十分ほどだろう。この部屋には時計も無いのだ。
「お隣さん……お隣さん……是非、お伝えしたいことがあります。私の部屋へ来て下さい……待っていますよ」
 私は勢い良く起き上がった。誰か……隣の、患者が私を呼んでいる。
 私は部屋のドアを開けた。廊下には五つのドアが並んでいる。私の病室のすぐ隣、壁一枚隔てた二〇一号室から声は聞こえてきた。壁の札には、“アレックス・スミス”と名前が書かれている。ドアをノックしてみた。
「おお、どうぞ、お入り下さい」
 ドアを静かに開き、部屋の中へ入った。
 部屋にはやはりベッドと……椅子があり、そこには一人の男が座っている。男は酷くやつれていて、目は落ち窪み顔色は悪く、目はまるで爬虫類のように見開かれていた。気味が悪い……私が男から受け取った第一印象はただ、それだけだ。
「くふふふ……隣人がこんなに不気味だと落ち着きませんか?」
 男は手に持っていた本をベッドの上に置いた。私は小さく、体をびくつかせた。男に対する私の印象が、思わず顔にでも出てしまったのだろうか。
「いいえ、そんな事はありません!」
「いいのですよ。この醜い姿は私が一番良く分かっています。初めて会った方は皆さん戸惑います。そうだ……ところであなたのお名前は? 私は……スミスといいます」
「あ、私はカーターです。カーター・オーガスト」
 ベッドの上の本に視線をやると、スミスは一度にやりと笑った。
「あの本にご興味がおありですか?」
「あ、いや、いえ……あの、私に何かお話があるとかで……」
「くふふふ……そうでしたね。あなたにお見せしたいものがあるんですよ」
 スミスは入院着──私も同じものを着ている──の胸ポケットから一枚、紙を取り出した。私はスミスからその紙を受け取る。
 それは、森に佇む小さな小屋を撮った写真のようだったが、写真の写りが非常に悪く、細かい所までは良く分からない。
「……これは何ですか?」
「さあ、私には分かりません」スミスは首を傾げる。
「何しろ、あなたの所持品ですからね。それはあなたのものですよ」
 私は写真から顔を上げた。
「えっ……どういう事ですか?」
「あなたは……ここへ意識不明の状態で運ばれてきました。その時にあなたのポケットから落ちたので私が拾っておいたんですよ」
 スミスは一度溜息をつく。
「本当は先生に渡すべきだったのですがどうしても私の手で渡したくて。あなたは記憶喪失、らしいですから……記憶を取り戻す鍵となれば良かったんですがね」
「そうですか……ありがとうございます。それでは、自分の部屋でゆっくり思い出したいので……これで失礼します」
「もうお帰りですか? 次に会うときまでに何か思い出していれば良いですね……それではまた……お隣さん。くふふふふ……」


 私は自分の部屋へ戻ると、ベッドへ座り、深く息を吐いた。あの男はいい奴なのだが、どうも不気味な姿と独特な口調には慣れない。あまり長い時間一緒にはいたくないな……
 私はもう一度スミスに貰った写真を見つめた。この小屋から、何かイメージできれば……。これは誰が何のために撮ったんだ? 私が撮ったのか? ……くそっ、思い出せない、しっかりしてくれ……
 そうだ、イメージするんだ。全てじゃなくていい。一辺だけでも、思い出すんだ!


 辺りの気温は低く、涼しい風が吹いている。私は小屋へ近づいた。全て木を組んで造られたログハウスのような小屋は写真で見るよりこぢんまりとしていた。
 ドアノブへ手を伸ばす。だが……小屋の内部が、何もイメージできない。これ以上、何も思い出せない……


 ……今の私に思い出せるのはこれくらいだ。少し思い出したとはいえ、あんなものでは全然情報が足りない。この写真だけでは……
 もっとだ、もっと何か、過去をイメージできる資料は無いか? そうすれば……記憶も少しずつ戻る筈だ!!
 そうだ、先生だ! マイスター先生なら私がどのようにしてここへやってきたのか知っている筈! ……何故もっと早く気付かなかった! 私は写真を胸ポケットへ押し込むと、病室のドアを開けた。




2.廊下


 部屋を飛び出し、廊下を見渡す。病室二つに、トイレと……あと二つドアがあるが……、先生はどこにいるんだ?
 その時、二〇一号室からスミスが出てきた。
「くふふふふ……また会いましたね。何か思い出せましたか?」
「あ、いえ……あの実は、マイスター先生を探しているのですが、どこにいるんでしょう?」
 スミスはトイレのドアを開く。
「くふふふふ……先生は普段ならあの資料室にいますよ……」
 資料室の方向を指差すと、スミスはドアを閉めた。


 ……資料室のドアには鍵がかかっている。なんだ? 今はいないのだろうか。
「すいません、マイスター先生、いらっしゃいますか?」
 ドアをノックしながら室内へ声をかけた。何やら中から物音が微かに聞こえる。
「カーター君かい? 今開けるよ」
 鍵が開く音がし、ドアが開くと先生の顔が覗いた。
「何かあったのか? ……まあ、入りなさい」
 部屋の中は資料室と言うだけあって本棚がいくつか並び、さらにシャーカステンや薬棚まであり、診察室も兼ねているようだ。
「あの先生……私がここへその、運ばれてきた経緯をお聞きしたいんですが」
 先生は私を小さな椅子へ座らせると、自分のデスクへ向かった。
「それはいい質問だ。君は……君の病名はコルサコフ症候群というんだが、そのせいで君は家にいる時に突然意識を失ってしまった」
 コルサコフ症候群……突然意識を失ったのか……そういえば、私の家はどこなんだろう?
 「それで、君のお父さんが救急車を呼び、君はここへやって来た」
「私に、家族はいるんですね!?」
「ああ、もちろん。当たり前だよ」
「あの、父に会いたいのですが!」
 先生は眉をしかめた。
「だが……実は……君のお父さんは、君の病気について酷く落ち込んでしまった。本人は『しばらく会うことはできない』と言っているんだよ……」
 先生は机の上に乗っていた茶封筒を手に取る。
「しかし、その後お父さんは君に手紙を一通送ってきている。部屋で読むといいよ」
 手紙を私に手渡し、微笑む。
「あ、ありがとうございます!」
 先生は立ち上がり、私の肩を叩いた。
「お父さんも、君の病気が治るのを楽しみに待っているんだ。頑張るんだよ」
「あ、はい! 一日でも早く記憶を取り戻せるように頑張ります!」
 私は資料室のドアを開けた。先生は壁の時計を見た。針は八時十二分を指している。
「消灯は九時だからそろそろ部屋に戻るんだよ。お休み……」
 私は資料室から出る。ドアの向こうで鍵のかかる音がした。


 ──私には父がいる。しかし今、父に会う事は叶わない。父は私の病気に対して相当のショックを受けてしまっているのであろう。
 少し複雑な心境の中、私は二〇二号室のベッドに座った。封筒から手紙を取り出す。
“カーター、お前が記憶を失くしてしまった事は父さんにとって、とても辛い現実だった。病気を治すためにも、マイスター先生の治療を受けて一日でも早く家に帰ってきてほしい。父さんより“
 私は手紙を慎重に折り畳み、また封筒へ戻した。手紙は、内容こそ短いものの、孤独で不安だった私を勇気付けた。父のためにも早く記憶を取り戻さなければ……


 数時間後……私は目を覚ました。部屋の気温は空調によって適度に保たれているが、心なしか少し肌寒い。私はベッドから起き上がった。洗面所へ行ってこよう……
「ここは!?」
 私が寝ていたのはベッドではなかった。土の上、地面だ。ふと前を見ると……あの写真の小屋がそこへ建っている。しかも……小屋の扉は開いている。
 そうだ! 私はこの小屋へ入ったことがある! 記憶が少しずつだが甦ってくる。私はゆっくりと小屋の中へ足を踏み入れた。
 玄関から廊下が一本伸び、突き当たりから左右に部屋が一つずつ見える。小屋の中は薄暗く、なんだか気味が悪いがこの中に記憶を取り戻す鍵があるかもしれない。私は廊下を進むと、まず左の部屋へ入った。
 部屋には本棚とテレビに、金庫があった。本棚には本が一冊しか置かれていない。私はそれを手に取った。


 “二月十七日 彼があれの存在を確かめようとこの山まで来たことは分かった。正直言って私には信じられそうにない。あんなものが本当に存在しているわけがないのだ。所詮神話や伝説の域を出ず、空想でしかないのは明白だ。いつまでもこんな所に居てもしょうがないので、この小屋を一通り探索したらここを出る”


 ……誰かの日記だろうか? しかしこの一日分しか日記は書かれておらず、残りは全て白紙だった。
 私は部屋のテレビをつけてみる。こんな小屋までよく電気がきているものだとは思ったが、どこのチャンネルに合わせても画面には砂嵐しか映らない。
 その後私は部屋を探索してみたものの、金庫は数値入力式のロックがかかっており開かず、結局自分の記憶についてわかるものは何一つ無かった。
 今度は隣の部屋へ入ってみる。だが、その部屋には横長の机が一つしか置いておらず、その机にも何も無かった。一体、ここは何の部屋なのだろうか? だが……何だかこの机には見覚えがあるような気がする。




3.二〇二号室


 私はベッドから起き上がった。今度は、しっかりと病室のベッドの上でだ。あの小屋、写真に写っていた小屋……どうも私の夢だったようだ。それにしても、なんだか懐かしいような感じがした。だが……これ以上思い出してはいけないような、何だか底知れぬ恐怖も私は感じていた。
 でも、しかしだ。あれが私の記憶であるとは限らない。第一、夢というのは全て記憶に由来したものというわけでもないし、自分が記憶喪失であるという不安が焦って生み出した幻影なのかもしれない。何が本当の記憶で、何が幻影かなど自分でわかるわけが無いだろう……考えていると、永遠に続く水掛け輪になりそうだ。
 気晴らしにスミスさんにでも会いに行くか……もう起きているよな?


 ──何があった。私は病室の、ドアを開けたはずだろう?
 目の前には怪しく、鈍い輝きを持った不気味な通路が続いていた。それは、とてもこの世の存在とは思えないほど奇妙で禍々しい空間で、何故だかここにいるだけで息が詰まるような感覚を覚える。
 何故病室のドアがこんなところへつながっているのだろう。ここは一体どこだ? やがて私は通路を歩き出した。通路は真っ暗で先も見えないが、とにかく先へ進まないことには始まらないだろう。戻っても病室以外何も無いし……
 段々と視界は狭まり、足元さえ見えなくなってきた。思ったよりこの通路は長いな……
「おーい、誰かいないのか?」
 通路に私の声が響いた。暗闇の中で自分の声だけが反響しているというのは不気味でたまらない。私の問いかけに答えるものは何も無く、一度病室へ戻ろうかとも考えた。
 体が痙攣を起こした。背後から、黒板を何かで引っかいたような甲高い音が聞こえたのだ。だが……これはそんなものじゃない。冷たいナイフが胸に突き刺さるような激しい悪寒と恐怖に足が震えた。
 私のしばらく後ろから、何者かの足音が聞こえるのだ。辺りの暗闇で、彼の姿は見えない。だが、間違い無い、とてつもなく恐ろしいものが今私を追いかけてきている。
 私は通路を全速力で駆け出した。
「やめろ! 来るな!!」
 奴は走る速度をどんどん増し、ついに私のすぐ後ろまで距離を縮めてきた。
「うわあぁぁぁぁーっ!!」
 奴が私の右腕を掴んだ。後ろを振り返る。緑がかった怪しい黒の、生物がそのぬるりとした長い手指で私に絡みついてくる。その目は黄色に鈍く光り輝き、細い瞳孔は真っ直ぐに私を見つめていた。
「やめろ! 離せ!! わあぁぁぁぁ!!」


 私はベッドから飛び跳ねるように起き上がり、まだ激しく鼓動している胸を押さえた。一体あれは何だったんだ? あれも……私がつくり出した幻想だというのだろうか……? だが、このリアリティはどこからこみ上げてくる? あまりにも生々しい。
 待て、冷静になれよ。あんなものが現実に存在しているわけがないんだ。額ににじむ冷や汗を拭い、ベッドから立ち上がった。私は疲れているんだ。そうだ、何も焦る必要は無いんだぞ。
 ベッドから立ち上がると、こめかみのあたりに鋭い痛みが走った。
「うっ……」
 頭が痛い……駄目だ! 耐えられない!! こめかみに釘を打ち付けられているようだ。それに、吐き気もしてきた。私はなんとか病室のドアを開き、廊下へ出た。
 先生から、薬を貰わないと!! 何度も嘔吐してしまいそうになりながらもなんとか資料室までたどり着き、急いでドアをノックした。
「せ、先生! 開けて下さい! 頭が痛いんです……」
 ……返事が無い。留守か? こんな時に限って!! また全身から冷や汗がにじみ出てきた。もう必死になってドアを叩く。が、やはり中からは何も聞こえない。
 私はドアノブを回してみた。
 すると……いつもはこのドアに鍵がかかって開けられないはずなのに、ドアは簡単に開いてしまった。鍵を閉め忘れたのか?

 私は部屋の薬棚まで走り、薬品の瓶を探し回った。“analgesic”と書かれたビンをつかみとり、錠剤を飲み込んだ。しばらくして……段々と頭の痛みは無くなっていった。私は薬瓶を元に戻し、資料室を出ようとした。
 だが……多分先生はあとしばらくは帰ってこないだろう。私の胸に好奇心が湧き上がってきた。……この部屋をちょっと見学させてもらうか。
 私はいつも先生が座っている机の引き出しを開けた。だが、どれも中は空である。──おかしい。何でどれも空っぽなんだ? こんなことあるだろうか。
 私は部屋を見渡した。ふと、何冊か本が乗せられている棚が目に止まった。その下の床に何かひきずったような傷がついているのだ。私は試しに棚をずらしてみた。棚は簡単に動かすことができ、その後ろの壁には、大人ひとりがかがめば通れそうな穴が一つ空いていた。
 なんだこれは? ……先生はここに何を隠しているんだ? ここまで手の込んだことをするなんて……。私は、壁に空けられた穴を覗き込んだ。




4.資料室 隠し部屋


 資料室の壁に開けられていた穴を潜り抜けた。そこには部屋が続いており、いくつかの本棚と机が一つあった。
 机の上には一冊の本が置かれている。表紙にはタイトルなどが一切書かれておらず、ただ左下に『複製』と書かれていた。本を開いてみると、古代の神話か何かに関して書かれた本のようだ。紐の栞が挟まっていたページを読んでみる。
 ページの見出しには“クトゥルーの伝説”と書かれており、太平洋の到達不能極に沈む島などについて様々な事が書かれていた。……その島は深き海中に沈んでいるのだが、天空の星が一定の位置に並んだ時、浮上してくるようだ。そして、その島に眠るクトゥルーという怪物は世界中の人間の精神を狂わせ、挙句の果てに自殺へと追いやる謎の力を持っているらしい。
 私は机に本を置いた。あまり読書にふけっている間に先生が帰ってきては大変だ。
 その時、机の上に何かの紙切れが乗っているのを発見した。紙はただのメモ帳を引きちぎったようなものだったが、そこには“1117”と書かれている。なんだこの数字は? 何かのパスワードだろうか?
 メモの切れ端を元に戻し、今度は事務机の引き出しをあさってみる。引き出しの中には新聞のスクラップがクリアファイルに整頓されていた。


“『ウィルミントン市で集団行方不明事件発生』
 ウィルミントンでおよそ一週間に渡り十五人が行方不明となっている。
 ウィルミントンを含めマサチューセッツ州では一週間という短い期間に、これほどの消失者を出した行方不明事件は異例の事態である。警察は手掛かりを追い行方不明者の捜索を開始したが、一向に有力な情報は得られていないという。
 ウィルミントンのとある山には魔神が棲んでいるという伝説があるが、果たしてこれは魔神が行った神隠しなのであろうか?“
 次のページを捲る。私は思わず目を見開いた。


“『ウィルミントンの山中で大量猟奇殺人』
 三月十八日未明、マサチューセッツ州ウィルミントン西部のウェルニッケ山にて、男性が遭難しているところを地元住民が発見した。
 男性は全身血まみれの服装で、自らを精神異常者だと訴えた。その後ウィルミントン市内の病院へ搬送され、精神鑑定の結果、男性は精神障害を患っていた。
 警察の尋問により男は、ウェルニッケ山中腹の廃墟にて大量殺人が行われたと述べ、警察が捜索したところその廃墟と、約十四名の遺体が発見された。遺体の損傷は著しく目を覆いたくなるものであり、内臓が抜き取られたもの、バラバラに切断され流し台に詰め込まれているものもあった。
 遺体の中には加害者と見られるものもあり、それは異常な風貌であったという。遭難者は「穴の底に恐ろしいものがいる」と述べるが、未だに穴は発見されていない。現在警察は犠牲者と保護された男性の身元を調査している。
 男性は現在市内の病院にて治療を受けているが、外傷はほとんど無かった。男性は自らも加害者の一人だと述べているが、真偽の程は不明である“


 私は部屋のベッドへ寝転がる。スクラップ集を読み終えた後すぐに、私は隠し部屋を後にした。先ほど読んだ奇妙な資料の数々を思い返してみる。
 私は堅物そうに見える医師の、オカルト好きな側面を見てしまったようだ。
 だがそんなことより……私にはあの四桁の数字が気になって仕方が無い。どこかで私はあの数字に関わっているような気がしてならないのだ。
 しかし、おかしな話だ。先生の部屋にそんなものがあることなんて考えられないし……、デジャ・ヴュの一種かもしれないな。
 私は一度溜息をついた。今朝に見た悪夢のせいか今日はなんだかまだ眠い。一度少し眠ろうか……


 私は顔を上げた。見ると、ここはあの写真の小屋の中である。
 ……そうだ、金庫だ。私は部屋の金庫へ走り寄った。資料室の隠し部屋で見たあの数字、あれはもしかして金庫の番号ではないか? ちょうど開錠パスワードも同じ四桁だ。
 私は金庫のダイヤルをゆっくりと回す。“1、1、1、7”。扉の取っ手を掴み、引いた。金庫は静かに開く。
 この数字は、金庫のパスワードだった。何故そんなものがあの病院にあるんだ? だが私のそんな疑問はすぐに失われた。私は金庫の中の直方体の物体を見つめる。
「……ビデオテープ?」
 私はそれを手に取り立ち上がった。部屋にあるテレビ台の中にあるデッキへとテープを挿入した。再生ボタンを押すと、画面は切り替わり映像が映し出された。


 画面には三十代前半と見られる男性が映っている。撮られた場所はどうやらこの小屋の、机が置いてある部屋のようだ。男は少しの間黙り込んでいたが、やがて興奮気味に口を開き始めた。
『カーター君、君ならこのテープを発見してくれると思っていたよ。金庫の番号は君の誕生日にしておいたが……簡単だっただろうか? 君は私の推測を否定したがったが、どうやら私の勝ちのようだ。
 見つかったんだよ! 今まで発見された人類の文化や遺跡のそれとは違う、もっと神秘的で古いものが、この山の底には存在しているのだ!! 君なら私の言っている事を分かってくれるだろう? 君の到着を待っていたかったのだが、どうしてもこの興奮が治まらないのだ。これから、私はこの山小屋の地下室の更に下へ向かう。そうだ、最後にもう一つ君に伝えておかなければならないことがある。地下室への扉は机で隠すことにするよ。第三者に見つけられたくはないからな。それでは、君の到着を待っているよ……」
 ビデオはここで停止した。




5.山中の小屋


 私は部屋に入ると、しばし机をじっと見つめた。ビデオテープの男は私の名前を間違いなく知っていた。だがしかし、あの男が一体誰なのか、未だに思い出せないままだ。
 男は私に何を伝えたかったのか? この山小屋の地下に何かが存在しているのだろうか?
 私のことを知っている数少ない人物……、彼に会えば私の記憶も甦るかもしれない。
 男の言っていることが本当ならばこの机の下に地下へ通じる道があるはずだ。……今も彼はこの地下にいるのだろうか? 分からないが、今はこれしか道は無い。
 私は机を押し動かし、その下に現れた床に目を向けた。木製の跳ね扉がそこにある。この先に、彼がいるのか……? 私は跳ね扉を開き、内部に見える階段を緊張した足取りで降りて行った。


 ──階段は地下室へと通じていた。薄暗い室内の壁に、カレンダーがぶら下がっている。しばらく前の月から日数に×印が書き込まれていた。彼はかなり前からここにいたのだろう。
 私は床に大きく開けられた穴を覗き込んだ。穴の底へは折り畳み式の赤い梯子が下りているのだが、こう暗くては前へ進めない。
 私は部屋にある小さな棚を覗き込んだ。見ると懐中電灯に、そして電池がきちんと二つ置かれていた。……これはもしかしてあの男が用意したものなのだろうか?
 ──とにかく、もう準備は整っている。真っ暗な地下の穴へ飛び込むというのは些か不安だが、行ってみるほか無い。私は、暗闇へ続く赤い梯子を、ゆっくりと降りていった。
 およそ三、四メートルほど、地面の底へ降り立った。……真っ暗だ。本当に何も見えない。私は恐る恐る懐中電灯のスイッチを入れた。
 そこには、ビデオの男が長い時間をかけて掘ったであろう一直線の通路が伸びていた。暗くて先は見えないが、この先に彼が、待っているのだろう。私は通路に足音を響かせながら、一歩一歩足を進めていった。


「長いな……」
 ……通路の長さは私の想像の域を超えていた。これほどまで長い穴を掘るとは、相当な集中力と確信を持っていたのだろう。ビデオの男の恐ろしいまでの執念がこの通路から伝わって来る。
 突然、懐中電灯の明かりが今までとは違う、緑色の壁を照らした。なんだろう、この緑色の岩盤は? 岩盤には人為的に穴を空けられた跡がある。これもきっと彼がやったのであろう。私は緑色の穴へと潜り込んで行った。
 穴の向こうには、広大な洞窟が広がっていた。その広さは想像できない程であり、明らかにビデオの男が一人で掘れるものなどではない。間違い無く、これは自然が造り出した空間なのだろう。
 ──これでは、彼を探し出すのは容易でないかもしれない。私は、行く道を懐中電灯で照らした。
 それにしても気味の悪い場所だ。こんな緑色の岩は見た事が無い。
 洞窟内部はいくつか分かれ道があったものの、基本的に一直線に道は続いていた。私はひたすら洞窟の中を突き進んで行った。
 ふと、私は気付いた。この洞窟には虫や爬虫類など、普通の洞窟にいる生物一切を見かけないのだ。水の滴る音さえもせず、ただただ恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込んでいた。
 かなり洞窟の奥まで進み……孤独感もかなり増してきたところだ。未だに彼の姿は見つからない。だが、洞窟の壁に変化が見られるようになった。……洞窟の道が一直線になっているのだ。それは明らかに人の手によって空けられた穴である。私は更に洞窟の奥深くへと伸びる道を走り出した。


「……カーター君か!?」
 懐中電灯の灯りが少し広くなった空間を照らし出す。……そこに立っていたのは、間違い無く、ビデオで見たあの男だ。
「ようやく来てくれた! どれほど待っていたことか!」
 男は私に近づき、握手を交わした。脳裏で衝撃にも近い強烈なフラッシュバックが起こった。


 彼の名はハワード・ホーネット。彼と最初に会ったのは……もう八年前だ。ミスカトニック大学で考古学を研究していた彼と知り合ってからというもの、共に考古学について研究する仲になった。
 ある日彼は、既に発見された遺跡では飽き足らず、ウェルニッケ山の地中深くに眠る謎の空間に興味を抱き始めた。もちろん私はそんなもの伝説に過ぎず、真面目に取り組むものでは無いと思っていた。それからだ。彼はまるで何かに取り憑かれたかのようにウェルニッケの山中に小屋を建て、研究を始めた。できれば彼にそんなことはやめて欲しかった。彼と会う機会は次第に減っていき、知人の中には彼のことを狂人呼ばわりする者もいたからだ。
 だがそれでも、彼は伝説へ向け穴を掘り続けた。既にそれから五年は経過しただろう。突然私の元へ連絡がやって来た。
『すぐにウェルニッケ山の小屋まで来てくれ』と。そして彼は遂に目的を成し遂げ、今私の前に勝利者として現れたのだ。
「……お久し振りですホーネットさん!」
 私はホーネットと再び握手を交わした。
「君がここへやって来なかったらどうしようかと思っていたよ」
「もう会えないのかと思っていました。この研究を始めてからというもの、あなたは人とほとんど接触していないでしょう?」
 ホーネットは穏やかに微笑んだ。
「いやすまない、夢中になるとは恐ろしいことだ」
 ところで、と言いホーネットは持っていたランプを部屋の奥へ掲げた。
「そうだ、君に是非見てもらいたいものがあるんだ。ちょっとついて来てくれ」
 私は洞窟の奥へ目を凝らした。




6.ルルイエ


 そこには、平らに削られた緑の壁があり、道はそこで終わっていた。と、いうことはここが洞窟の最奥か?
「これを見てくれ」
 ホーネットはランプでその壁を照らした。壁には何やら古代文字のようなものが彫られている。私は壁に近づきその文字を眺めた。
「漢字……じゃないでしょうし、何と書かれているんでしょう?」
「私にもそれを訳すことができないんだ」ホーネットは首を横に振りながら言った。
 この古代文字は、一見するとハングルのような形状を持っているが、私が今まで見た古代文字のどれにも当てはまらない、理解不能としか言いようのないものだった。
 「……ただ、これが何であるかは大体の想像がついているんだ」
 私は後ろを振り返る。
「この地域に伝わる伝説だが、『呪われた地の底に眠る旧支配者、緑の扉の奥に眠る』と、ある」
「どういうことですか?」
 ホーネットは緑の壁に手をついた。
「これは扉である可能性が高い」
「開けないんですか?」
 ホーネットは腕を組んだ。二人の会話が洞穴に響く。
「いや、私も最初はそう思ったんだが、まったくこの扉はびくともしなくてな……」
 私は扉の方を向き、緑の壁を強く押してみた。……本当だ。何も動かない。今度は古代文字の窪みに指を突っ込み引いてみるものの、結果は同じである。私自身、それほど非力というほどでもなく、力が足りないというよりは、扉が根本的にロックされてしまっているような手応えを感じた。
「……駄目ですね」
 だがホーネットは扉の前に立ち、注意深くそれを観察し始めた。
「扉というからには、必ず開くはずだ。もう少し調べてみよう」
 私は懐中電灯で扉を照らし、古代文字を見つめた。扉の造りは古代文字が書かれている以外に特徴的なものは無く、ましてや隠されたスイッチなどという大掛かりな仕掛けもあるはずが無い。
 しゃがみ込み、扉の底部をじっと観察してみる。ふと、指先に冷たい風が吹き当たるのを感じた。懐中電灯でそこを照らす。
 なんと、扉と床の間には三センチほどの小さな隙間が空いているのだ! 私は立ち上がった。
「この扉は、もしかして持ち上げる仕組みなんじゃないですか?」
 ほら、ここに隙間がありますよ、とそこに懐中電灯を向ける。ホーネットは扉と床の隙間をじっと見つめた。
「……でかしたぞカーター君! 早く、開けてみよう!!」
 私はホーネットの隣にしゃがみ込み、隙間に手を入れ渾身の力でそれを持ち上げた。
 ──やはり予想通りだ。扉は静かに持ち上がり、向こうには新たな空間が覗いていた。
 私はホーネットと微笑みを交わした。
「待って下さい。これじゃあ無理ですよ」
 私は両手に重く圧し掛かる扉をゆっくりと下ろした。扉を持ち上げれば人ひとりは楽に通れる隙間はできる。
 しかし、この扉は相当に重く──岩の壁なのだから当然だ──二人でも現状維持がやっとである。どちらか一人が手を離してしまえば、それは振り出しに戻ってしまうだろう。
 ホーネットは額ににじんだ汗を拭った。
「これじゃあ扉を開けても先に進めないな……」
「何か良い方法はありませんかね?」
 突然、彼は何か思い出したように洞窟を引き返していった。
「どうしたんですか!?」
 ちょっと待っていろ、と言うと彼は少ししてスコップを抱え戻ってきた。
「洞窟を掘る時に使っていたやつだ。これをつっかえ棒にしよう」
 再び扉の前へ立つ。私はホーネットと再び扉を持ち上げた。
「いいか? 離すぞ?」
 私が頷くとホーネットはスコップを手に取り扉と床の隙間へ立てた。扉を持ち上げる手を離すと、スコップか微かにきしむ音を立てたが、これくらいで折れることはさすがに無いだろう。
「……よし、中に入るぞ」


 扉の向こうは今まで我々がいた空間とさほど変わりは無かったが、一つ違うこととして、部屋の中央に大きな穴が開いていた。
「……結構深そうですね。どこまで続いてるんでしょう?」
 私は穴の底を覗きこんだ。冷えた風が下から吹き上げ、なんだか気味が悪い。
「いくら私でも、この中に飛び込もうなんて愚かな事はしたくないぞ」
 私は慌てて立ち上がった。
「私も嫌ですよ! 突き落としたりしないで下さいよ?」
 ホーネットは部屋を見回す。
「だが……この部屋にはこの穴以外に目立ったものが何も無いな」
「やはりこの穴の中に何かがあるんでしょうか?」
 懐中電灯で穴を照らしてみるが、底は全く見えない。
「飛び込むか?」
「冗談じゃないですよ!」
 ホーネットの笑い声が部屋に響く。
「悪い冗談だよ。……とりあえず、今日は一度引き返そうか?」
 私は後ろを振り返った。
「今度はしっかりしたつっかえ棒と梯子を持って来なくちゃいけませんね」
「ああ、そうだな」
 ──私は内心、ほっとしていた。この穴の底から吹き上げる風は、まるで邪気の塊のようだったのだ。風を体に受けるたびに底知れぬ恐怖が沸きあがるよう……。ホーネットは穴の向こうに伝説の答えがあると見て喜んでいるが、正直私には不安以外何も感じられなかった。
 とにかく、今日は小屋へ戻ってゆっくり休もう。なんだか少し頭が痛いような気もしてきた。




7.二〇二号室


 私はまだはっきりしていない意識を振り払うように頭を振った。ずいぶんと長い夢を見ていたようだ……
 だが……これで私の記憶はほとんど甦った! ホーネットのことも、小屋の地下洞窟のことも思い出した。そうだ、住所も分かるぞ、生年月日も、一九七八年の十一月十七日だ!
 やったぞ! 記憶が戻った! 全部思い出したぞ!! 私は慌てて病室のドアを開いた。このことを早く先生に伝えよう!
 ──私は足を止めた。背筋から全身へと寒気が走る。
 ……何故だ? 何故手紙なんかがあるんだ? 私は急いで病室へと戻り、枕の下へ入れておいた父からの手紙を取り出した。
 封筒から取り出し、もう一度読んでみる。……父は、私の父親は私が八歳の時に肺癌で死んでしまった。何故、父は私の記憶喪失を知っている? いや知っているわけが無い。
 ──マイスター先生は、嘘をついている!! 一体何をしようとしているんだ?
 とにかくだ。彼は、私に何故偽の手紙なんて渡したのだろうか? 私は、手紙を封筒へ戻すと床へ投げ出した。先生に理由を聞いてこよう。私は部屋のドアを開けた。
「おっ……どうした? カーター君」
 一瞬私は呼吸を忘れ、ただそこに立ち尽くした。ドアを開けたすぐ目の前にマイスター先生が立っていたのだ。
「あ、いえ……あの……」
「何かあったのかい?」
 先生の目は、私の病室の中を鋭く見据えていた。私は意を決して言う。
「……先生、何故私に偽物の手紙を渡したんです? 私の父は、まだ私が小さい頃に死んでいるんですよ!?」
 マイスター先生の顔から、決して絶えたことの無かった微笑が消えた。黒縁眼鏡の奥に映る細い目はもはや私を睨み付けているように厳しかった。
「……何を言っているんだカーター君。君のお父さんは亡くなってなんかいない。その手紙は本物だ」
 先生は歯を食いしばりながら話した。
「やはり君には治療が必要だ。今から用具を持って来るよ。すぐに戻ってくるから待っているんだよ」
 先生は私を一度強く睨み付けると急ぎ足で青いドアの向こうへ消えて行った。──治療だと? ふざけるんじゃない。私の記憶はもう戻ったんだ!
 ……先生は私に何かしようとしている。あいつの、治療なんか受けてたまるか! ……だがしかし、ここに留まっている限り、確実に私は治療を受けさせられてしまうだろう。どうすればいい?


 私は静かに二〇一号室のドアを叩いた。スミスさんも、連れて行ってやらなければ! やはりあの医師は、この病院はどこかおかしい!
 ……だが、ドアの向こうから返事は無い。私はノブをひねると、ドアを開いた。
 誰もいない。スミスさんはどこにいったんだ? こんな時に……、仕方が無い、今は自分の身をなんとかして護らなければ。
 マイスターは廊下の端の青いドアから出入りしている。だがそれはマイスターが持つ鍵によって管理されており、普段は常に施錠されているのだ。
 ──マイスターは『用具を持って来る』と言っていた。奴は必ずまたこのドアを開ける。
 その隙に、鍵を奪い取ってしまえば……。そうだ。鍵さえ取ってしまえば、マイスターをこの階へ閉じ込めることができる。非常に危険だが……今の私にできることはこれくらいしか思い浮かばない。
 私は青いドアの前に身をかがめた。自分の呼吸すらも聞こえないように、全ての音を殺し、ひたすら待った。だが、それだけ冷静になろうとも、足の震えだけは止められなかった。
 怖い。ただ、恐ろし過ぎる。しばらく、いや実際は五分ほどしか経っていないのだろうが、私にとっては何時間にも感じられる長い時間が過ぎた。
 そして、ドアの向こうから足音が聞こえてきた。身体の、全神経系に全ての力を込めた。サムターン式の鍵が解除される音がし、次いでドアノブが回った。
「何だ!?」
 私はマイスターに飛び掛り、右手につかんでいた小さな鍵をむしり取った。彼の腹部を蹴り飛ばし、ひるんだ隙にドアを開き、中へ入る。
「おい、やめろカーター君!!」
 ドアの鍵を閉めた。マイスターが必死にドアを叩いている。
「ははははは!! やったぞ!! どうだ? 閉じ込められる気分は!?」
「治療をしなければ記憶が戻らないんだぞ! 早く開けてくれ!!」
 私は全ての怒りをドアの向こうへぶつけた。
「ふざけるな!! 何もかも思い出したんだぞ! そもそも、私は友達と山を探索していたんだ!」
 部屋を見回した。だが、ここは部屋というよりただの階段の踊り場のようだった。一つだけある階段は、治療所の下へと続いていた。
「そうだ、お前は、何者なんだ!?」
 ドアを叩く音が一瞬止んだ。まるで時が止まったように静寂が訪れる。
「貴様アアァーッ!! コノ、私カラ、逃ゲラレルト、思ッテイルノカアァッ!?」
 医師の発する言葉は、この世のものとは思えぬ、人間には到底発音できないような恐ろしいものになった。そして、今度はドアを破壊せんばかりの強大な力でこちらに体当たりしてくる。……このままでは本当に扉が破られてしまうかもしれない! 私の安堵は、すぐさま焦りと緊張へ変化した。
 私は部屋の階段を駆け下りる。
「絶対、逃げ延びてやるからな!!」




8.治療所 一階


 息が苦しい。どうなっているんだ。これでハッピーエンドではなかったのか!? 震えて止まらない足のまま私は一階へ降り立った。
 そこには、今までの白いクリーンな景色とは対象に、コンクリートむき出しのじめじめとした気味の悪い廊下が続いていた。

 ……何なんだこの施設は? 病院ではないのか!? いや、今はそんな事言っている場合じゃない。あいつがドアを叩く音が上の階からも聞こえてくる。どこか、隠れる所は無いか? このままでは、すぐにでもドアが破られてしまう!!
 廊下の先を眺めてみた。ドアが三つ並んでいる。私はドアを、半ば体当たりするように押した。が、ドアはびくともしない。ドアをあと二度ほど蹴り飛ばすと私はその隣のドアに取り掛かった。
「開け! 開けっ!!」
 無我夢中になりドアの取っ手を引き、そして体当たりを繰り返す。上の階から、何かが破壊する音が聞こえてきた。
「カーターアァァァァ!!」
 医師のおぞましい唸り声がここまで聞こえてくる。
 私は三つ目のドアを押した。だが、ここも開かない! もうおしまいだ!! 全身が止めようも無いほどにがたがたと震え出す。
 ドアの取っ手を握り締め、引く。するとどうだろうか、ここだけ鍵がかかっていないのだ。ほとんど反射で身体が動き、部屋の中へと飛び込んだ。


 目の前の惨劇に私は小さな悲鳴を上げた。ドアの鍵を閉め、部屋を振り返ると目に赤色の液体が映り込んだ。壁にもたれかかり、全身を刃物で切り裂かれた死体が空を見つめていた。
 そして……その死体は、間違い無い。
 スミスだ。
 ちくしょう、あいつめ正気じゃない! 一体何をしようってんだ!? 全身メッタ刺しにされたスミスの血液は床いっぱいに広がり、深く切り裂かれた脇腹からは、内臓がはみ出していた。
「小僧オォォォォーッ!! ドコニイル!?」
 ドアの向こう……恐らくもう廊下まで降りてきただろう。医師の声が部屋の外で響き渡っている。小さく、金属が擦れ合う音そして、どこかのドアが開く音がした。
 ……しまった! 奴はドアの鍵を持っている!! どうすればいいんだ? このままでは……
「ココハ……? 違アァァァーゥ……」
 ドアが閉まる音がすると、また今度は別のドアが開いた。
「……ココモ違ウゥーッ?」
 部屋のすぐ外で、マイスターの荒い呼吸音が聞こえていた。
 いやだ、どうすればいい? このまま、私もスミスと同じように……、くそっ、誰か! 助けてくれ!!
 私の目が、ふとスミスの死体へと向いた。彼の、死体の太腿には大きなナタが突き刺さっている。私は恐る恐るナタを引き抜いて構えた。
「カータアァァァ……! ココダナァ……?」
 なんだか目が回ってきたような気がする。恐怖で脳が混乱している。
 ドアが勢い良く開いた。
 私は、ドアの隙間から医師の顔が覗くと同時に、彼の顔をナタで大きく切りつけた。
 ……彼の顔は、マイスター医師の顔では無かった。眼鏡の奥には黄色く、鋭い目が光り、顔面は青白く変色していた。
 私は医師から一歩下がり、またナタを構える。彼の顔面を、斜めに深緑色の筋が走った。
「イ……痛イ、痛イィィィィッ!!」
 両手で顔面を押さえよろめくと、彼は走って廊下へ逃げていってしまった。


 私は床へへたり込んだ。ナタを投げ捨て、まだ治まらない全身の震えをなんとか止めようとした。だがしかし、この凄まじい恐怖に、平常心でいられる人間がいるだろうか?
 ようやく自分の身の安全を感じ始めると、激しい吐き気が襲い掛かってきた。しまった!! 奴が弱気になっている今、止めを刺さなければ!! 私は慌てて床のナタを掴み取ると、部屋から飛び出した。
 マイスターを、殺さなければ!! 廊下の床には、奴の傷口から流れ出た、血……だろうか? 緑色の液体が点々と続いていた。そしてそれは二つ目の部屋に向かっている。私はナタを強く握り、ドアノブに手をかけた。
「うおぉぉぉぉ!!」
 ドアを思い切り開く。が、しかし、そこには既にもう奴の姿は無かった。
 部屋の床には直径一メートルほどの大きな穴が開いている。奴は、この中へ飛び込んだのか……? どうにかして奴を殺さなければならない。
 ……穴の底へ向かおう。どの道、私にはこれしか道は残されていないのだ。部屋の棚には幸い、オイル式のランプとライターが置かれていた。多分医師は、慌ててこれも持たずに穴へ飛び込んだのだろう。
 灯りは準備できている。だが問題は穴の深さだ。ここには梯子が無いので、もしかしたら、奴は底で落下の衝撃に耐えられず、死亡しているかもしれない。逆に穴の深さが大したことがなければ、奴はまだ生きていることになる。
 しかし、このままここでじっとしていることなどできない。私は、ライターでランプに明かりを灯す。もはや覚悟は決まっていた。ナタとランプを手にし、私は暗い地下へ続く穴に飛び込んだ。
「うっ」




9.無名都市


 私は梯子から地面へ降り立った。ズボンの膝に付いた土ぼこりを払い落とす。
「カーター君、見ろ!」
 先に下へ降りていたホーネットが私の方を振り返った。顔を上げると、そこには懐中電灯に照らし出され、不気味に輝く、恐ろしいほどに広大な緑の洞窟が広がっていた。小屋の地下のものなど、比べ物にならない。下手したら野球スタジアムさえもここに納まってしまうだろうか。
「すごい……ウェルニッケの地下にこんな空洞があったなんて」
「ああ……ちょっと、見て回ろう。まあちょっとやそっとじゃ見て回れない広さだがな」
 私とホーネットは洞窟を歩き進んだ。話すたびに二人の声は弱く反響する。
「ホーネットさん、なんか、ここにいると気分が悪くなってきませんか?」
 ホーネットは立ち止まると振り返る。
「大丈夫か? ……私は特に何も感じないが……」
 私は首を大きく振った。
「いえ、大丈夫です。ただ頭が少し痛くなったような気がしたので」
「……無理するんじゃないよ? もしかしたらここに生えているカビやコケの胞子のせいだろうか」
 再び私たちは洞窟内を歩き出す。だがしかし、ホーネットはまたすぐに足を止めてしまった。左手を横に突き出し、私の行く手を遮る。
「谷……いや、断層か?」
 その先を照らすと、目の前には地面が割れてできたであろう、大きな谷があった。それはまるでクレバスのように深く、底を懐中電灯で照らしても見えないほどだ。私は左右を懐中電灯で照らしてみた。このままではここより先に進むことが出来ない。入口で使った梯子を持ってくる……わけにはいかないか?
「あっ、ホーネットさん! あそこで谷が終わってます」
 私はホーネットの肩を叩くと、向こうの方を照らした。長く続いている大きな亀裂は向こうのほうで止まっており、そこからなら向こうへ行くことができそうだ。
「それにしても……物凄い広さだな。見てくれ、向こうの方にもでかい谷があるぞ」
 私たちはさらに洞窟の奥へ進んで行った。いや、ここはもう洞窟などと呼べるクラスではないかもしれない。
「もしかしたら……ここには何か文明があったのかもしれないな」
 ホーネットが平らな地面を照らし出した。
「ほら、ここの辺り一帯にはこの緑の岩とは別の、白い岩が転がっている」
「でも、それがなんで文明と関係があるんですか?」
 良く考えてみてくれ、とホーネットはその白い石を拾い上げた。
「この空間は、ほとんどが緑の岩だけで構成されている。周囲にこんな白い岩なんて無いし、多分これは誰かが外部から運んできたものだろう」
 私は、さらに向こうに懐中電灯を向けた。白い石がいくつも散らばっている。


「ここからはずいぶん広範囲に石がありますね」
 私は足元を照らし進んでいった。二人でしばらく話しながら進んでいると、突然ホーネットが走り出していった。
「どうしたんですかホーネットさん!!」
 ホーネットはしばらく先で立ち止まると、白い壁を照らした。
「見ろ! 建物だ! 建物が完全な状態で残っている!!」
 懐中電灯の灯りに照らされたものは、白い岩を削って造られた大きな建物で、入口と思われる穴がそこに開けられていた。

「カーター君、中へ入ろう!」
 ホーネットは私の腕を掴み、中へ引っ張っていった。
「ちょっと、もうそろそろ帰りません?」
「何を言ってるんだ、歴史的発見だぞこれは!」
 私は建物の中へ入ると、部屋を照らしてみた。


 部屋の床に敷かれたタイルのようなものは綺麗に並べられており、建物もしっかりとした造りであった。この文明は、それほど古いものではないのかもしれないな。
「ホーネットさん、ここの調査は明日にしませんか? 一度戻りましょうよ」
 頭痛は先ほどにも増して酷くなってきた。
「まあ良いじゃないか、ここを探索したら戻るよ」
 私はしぶしぶだが部屋を調べ始めた。部屋には長方形の箱のようなものが一つだけ置かれている以外、特に何も無かった。奥へと続くドアのようなものも何も無く、建物はこの部屋で終わりかと思われた。
 私は箱に近づき、よくそれを観察してみた。中には白黄色の細かい何かの破片が入れられている。
「これは何だろうな」
 私はその小さな欠片を手に取り眺めた。
「軽いですね……それに、そう硬くないです。石ではないんでしょうか?」
「おい……これは……」
 ホーネットの顔が少し青褪めた。
「……人骨じゃないか!?」
「え!? これがですか?」
 それを見ろ、とホーネットは一つの丸い破片を私に見せた。……頭蓋骨である。
「……だが、これは現代人のとはやはり違うな。ピルトダウン人か……いや、それ以下の退化的な頭蓋骨だ。だが、まあこれは人間に属するもので間違いは無さそうだな」
 私は慌てて手に持っていた骨を、箱の中に戻した。
「……じゃあこれは棺ですか? いや、でも、これは明らかに一人の骨じゃないですよね」
 箱は結構な大きさで、それ一杯に骨は詰め込まれているのだから、これはかなりの人数の骨が入っているのだろう。だが……それではこれは一体何だ?
「ん? なんだそれは?」
 ホーネットが箱の中を指差した。箱の中には人骨に混じり、黒色をした正方形の小さな石版が入っていた。




10.無名都市


「何ですかねこれは?」
 私は箱の中から見つけた正方形の石版を手に取って眺めた。それは石をただ削って作られたとは思えないほど、恐ろしく正確な正方形で、厚みも一センチ足らずと非常に薄いものだった。
「何か貴重なものなのかも知れないな。一応貰っておこう」
 ホーネットは石版を建物の入口付近の床に置いた。
「ん……これは……カーター君!」
「何ですか?」
 ホーネットが部屋の隅の床を指差している。床には十五センチ四方の浅い窪みがついている。
「これは、もしかしてここにはめ込まれるんじゃないだろうか」
 ……まあそう言われれば確かに石版がぴったり入りそうな窪みだ。
「……入れてみよう」
 ホーネットは、恐る恐る石版をその床へはめ込んだ。
 辺りに轟音が響く。最初は建物が崩れ出したのかとさえ思った。
「……何だ?」
「何かあったんでしょうかね」
 私たちは立ち上がり、辺りを見回した。一体今の音は何だったのだろう? が、その答えは意外と簡単に見つかった。
「ホーネットさん! 骨が消えてます!」
 私は先ほどまで人骨が収められていた箱を指差す。だが、今はその骨が一つも無い。私は箱の中を覗いた。
「……箱の底が抜けて……下に降りられる仕掛けになってます」
「床に一定の加重が掛かると作動するようになっていたんだろうな。しかし……こんな仕掛けが作れるなんて……」
 あの石版にしても、この仕掛けにしても、これが太古の文明などとはとても思えなかった。ここに住んでいた者たちは、他の人間たちよりもかなり高度な技術を持っていたのだろう……
「……こんな仕掛けを施すまでだ。中に何か重要なものが置いてあるかもしれない」
「えっ、は、入るんですか? この中に?」
 頭がどうにも痛い。それにだんだんそれは悪化してきているようだった。古い空気を吸っているせいだろうか? 原因は分からないが……
 ホーネットが穴の底を照らす。
「見ろ、一メートルちょっとしか無いぞ。梯子無しでも行き来できるな。多分……この先に、素晴らしいものが待っている筈だ」
「……分かりました。じゃあ、この建物を見終わったら、今日はもう帰りましょう」
「ああ、そうしよう。とにかく、先に進んでみるぞ」
 ホーネットは懐中電灯を持ちながら、穴の底へと飛び込んだ。私も箱の中へ飛び込み、下の地面に着地すると、足元で骨が砕ける音がした。……通路の天井も一メートルほどしかないが、屈んで行けば進めそうだ。
 ──しばらくそのまま通路を進んだ。通路の中は湿気が多く、ほこりが充満していた。突然、ホーネットが声を上げる。
「おい、部屋だぞ! やっぱりあった!」
 ホーネットは歩く速度を速めた。私も後に続き通路を進んで行くと……
 そこには、先ほど私たちがいた部屋と似たような造りの部屋がもう一つあった。だが、今回は先ほどの部屋より狭く、部屋の中央になにやら直方体の箱が置いてあるだけだった。黒い岩を削って造られたであろうその箱は……、忌まわしいまでに、棺桶の形に似ていた。
「ホーネットさん、これは……」
「……棺桶、だろうな。開けてみるか?」
 私は、上に乗った重い蓋を両手で掴む。ホーネットさんと二人がかりでそれを持ち上げた。石を引きずる音と共に、棺桶が開かれる。
「……これは……ミイラなのか?」
 ホーネットは懐中電灯で棺桶の中を照らす。
「さっきの部屋で見つけた骨よりも、さらに奇怪な形状だ! 人間のようにも見えるが……こんなもの猿人から人間の進化の過程にに存在しないぞ」
 棺桶の中には、異常な姿をしたミイラが眠っていた。異常に長く伸びた頭部、四本しか無い手足の指、そして……大きな尻尾がついていた。だが、それらを除けば、このミイラは恐ろしく人間にそっくりである。
「私たちの知らない進化を辿った太古の生物が地下に存在していたということになりますね……」
 ホーネットはかなり興奮している様子だった。
「ああ! その通りだ! これは歴史的な発見だぞ!!」
 私は、ミイラの左手にはめられた指輪に目を向けた。
「ホーネットさん、この指輪は何でしょうかね?」
「……見た目からして、翡翠のようだが……詳しく分析しないと正確な答えは出ないな」
 ホーネットはミイラの指からその指輪を抜く。
「この指輪が何で出来ているか、持ち帰って調べてみようか」
「ミイラはどうします?」
 私は、棺桶を指差した。
「これは……巨大すぎて持って帰れないな。そうだ。後で大学の学生を呼んで、大学へ運んで行くか」


 私たちは一旦建物を後にした。
「よし、じゃあ今日は帰りましょうか」
「ああ、見てみればもうこれ以上調べるところは無さそうだし……、もう一つの断層の向こうへは行けないしな」
 私は周りを懐中電灯で照らした。
「それじゃあ、明日にでも早速大学へ連絡しておかなければ」
 ……私たちは、洞窟の入口まで戻り、山中の小屋まで戻ってきた。
 ……久し振りに浴びる空気と、日光が素晴らしかった。




11.ルルイエ


 頭が痛い。私は左のこめかみを押さえながら立ち上がった。見ると、手のひらには血が付いている。どうやら、頭を切ってしまったらしい。辺りを見回した。
 ──私は……着地の時にどこかへ頭を打ち付けたようだ。気絶していたのか? まだ意識が朦朧としている。しまった、辺りが見えないと思ったら、ランプまで消えてしまっている。
 ……良かった、ライターはポケットに入れたままだった。私はランプに火を灯す。マイスターは私が気絶しているうちに逃げ出してしまっただろうか?
「これは……」
 そこは、そう、まさにウェルニッケ山の地下洞窟と全く同じ。緑色の壁に覆われた不気味な空間だった。ここは、どこなんだ? もしかして……ここはウェルニッケなのだろうか? ……とにかく、今は奴を追わなければならない! 私は地面に落ちていたナタを拾い上げると、緑色の通路を走り出した。
「マイスター! 出て来い! どこにいる!!」
 私は辺りに向かって叫んだ。だが、洞窟の向こうからは何の物音もしない。やはり……どこか遠くまで逃げられてしまったか? そのまま洞窟内をしばらく進んでいると……
 分かれ道に差し掛かった。直進する道は細く向こうまで伸びており、右折する道の壁には、“GATE”と書かれた板が打ち付けてあった。どちらへ奴は逃げたのだろう。そして……ゲートとは何だ?
 すると、右の道から何かが走ってくる足音がした。……何だ? まさか、マイスターか?
 私は、ナタを構えながら洞窟の道を右折した。医師を殺してやる、という信念とは裏腹に私の足は激しく震え出した。怖い。ただそれだけの感情では無い。
 何か、自分でも分からない第六感が『これ以上進んではいけない』と激しく警告している。だが……今は何をどうしてもマイスターを倒さなければ……
 道を進んでいくと、やがて行く先に門が見えた。その門は、この世の産物とは思えぬ、まるで地獄のもののように禍々しい風貌で、それ自体がとてつもない、邪気を漂わせていた。
 私は、恐る恐る門を開く。それと同時に、激しい頭痛と吐き気が私を襲う。側頭部の傷も焼けるように熱く痛んでくる。くそっ……何なんだここは? 心臓の鼓動はますます速くなり、額には冷や汗がにじんできた。
 思わず、一度嘔吐しそうになり、立ち止まった。……苦しい。この奥から、何か恐ろしい放射線でも漏れているのではないかとさえ思った。その時、洞窟の奥に、何者かの、姿が見えた。
 私は反射的に走り出す。
 ……やはり、マイスターはそこにいた! 壁にもたれ掛かり、立つ気力も無いかのようにぐったりとしている。彼の両手はまるで……ミイラのように水分を失い、干乾びていた。
「フ、フフフフフ……カータァー……モウ遅イゾ。我等ノ旧支配者ハ、モウスグ復活ヲ遂ゲル」
「な、何の事だ!!」
 マイスターはゆっくりと、ふらつきながらも立ち上がる。
「カーター……オ前ハ、何モ、分カッテイナインダナァ……フフフフフ……モウ、少シデ、神ハ復活スルノダ」
 私はマイスターにナタを突き付けた。
「何の事だ! 言え! 刺してやるぞ!!」
「フフフ……ハハハハハ!! ドウニデモシロ! モウ私ハ役目ヲ終エタ。殺シタイノナラ、殺セバイイダロウ」
 私の、理性がそろそろ吹き飛んできた。頭が正常に回転していない。
「死ね!! もう二度とその口を利けなくしてやる!!」
 私は、ただ、怒りにまかせ、マイスターの首にナタを突き刺した。この悪魔のような声を、もうこれ以上聞いていたくなかった。
 マイスターは口から、凄まじい量の血を吐き出す。だが、その色は人のものとは違い、不気味な緑がかった色をしていた。私は、さらに何度も奴の体にナタを突き刺す。やがて……マイスターは声にならない呻きを上げながら、地面に倒れた。
「はは……ははははは!! やったぞ! どうだ!」
 私はマイスターの体を蹴り飛ばした。今自分が殺人を犯したということも、まったく気にならない。ただ、狂気が私を蝕んでいるだけだった。
 私は緑色に染まってしまったナタを手に取る。奴はこの先に何をしに行っていたんだ? ──もしかしたら、奴の仲間でもいるのかもしれない。もしそうならば……そいつらも全員殺してやる!!
 私は洞窟内を走り出した。未だに頭痛は止まず、頭の中でがんがんと嫌な痛みが反響している。
 通路を走っているうちに、少し広くなった、部屋のような所へたどり着いた。部屋の中央には、美しいが、妖しい輝きを持つ、青緑色の巨大な岩が一つだけあった。……なんだこれは?
 岩は、まるでウェルニッケの洞窟で見たような、棺桶の形をしていた。だがこれは、棺桶全体が、美しい色の岩石で作られている。そしてその中には……
 かなり腐敗が進んできているが、恐らく頭蓋骨が割れ、死んだ人間が横たわっていた。何故、こんな所に人の死体が……? 私は注意深くその死体を眺めてみた。頭から流れた血で顔面はほとんど緋色に染まっている。
 その時……頭を殴られたかのような、強いフラッシュバックが私を襲った。




12.無名都市


 ──次の日、ホーネットはミスカトニック大学へ連絡をすると、再びまた地下の洞窟へと潜ろうとした。私はあまり気が進まなかったが……また何か発見があるかもしれないし……
 そしてまた、私たちは緑の空間へやってきた。いつ見ても、この荒涼とした恐ろしく広大な眺めには圧倒される。しかし……どうやってこの山の地下にこんな空間が生まれたのだろうか? これは、もしかしたら地質学者にとっても大きな発見なのかもしれない。
 私は──大きな脚立を抱えて歩く──ホーネットの方を見た。
「なんで脚立なんて持って行くんです?」
「あそこほどのクレバスなら、これで越えられる」
 ホーネットは向こうに深く裂けている大きな亀裂を指差した。
「そんな……危険ですよ!」
 私は立ち止まった。いくら探究心旺盛とはいえ、こんなことをするのに黙って見ているわけにはいかない。
「まあ、落ち着け、大丈夫だよ! 大学から返事が来るまで時間がかかるだろうし、色々見ておきたい所もある」
「いや、それもまあそうなんですけども……落ちたらどうするんです?」
「またあのようなミイラが見つかるかもしれないぞ? ……じゃあ、分かった。行くのは私だけだ。君は待ってなさい」
 私は振り返り、向こうに暗く口を開ける断層を見つめた。
「……分かりましたよ。私も行きます」
 それならいいんだ、とホーネットは再び歩き出した。


「気をつけて下さいよ!」
 谷の間に渡された脚立の上をホーネットはゆっくりと渡っていった。この下へ落ちたらどうなるのだろう……運が良くても全身強打で死亡だ。悪ければ身体が原型を留めず粉々に砕けてしまうだろう。
「……いいぞ! ゆっくり渡って来い!」
 ホーネットは谷を渡り終えると、脚立を手で押さえた。私はもう一度谷の底を覗く。ああ、だめだ。下を見るんじゃなかった。そうだ、ここは、地上なんだ。私は地面に脚立を広げて歩いてるんだ……
 足を一歩踏み出すと、脚立は嫌な音を立てて軋み始める。もはや強度などの問題無しに、脚立はこんな使い方をされるのを予想して作られているのか? 静かに、一歩一歩ゆっくりと足を進めていく。今や私の足は直径四センチのアルミニウム筒のみで支えられているのだ。気分が悪くなってくる。──やがて、私は久し振りにしっかりと大地を踏みしめた。まだ心臓が強く脈打っている。
 ホーネットは脚立から手を離し、立ち上がった。
「よし、先に行こう。ほら見ろ、向こうに洞窟みたいなものが見えてたんだ」
 ホーネットは向こうの壁を懐中電灯で照らした。


 私とホーネットは、少し身を屈めながら洞窟の中を進んでいった。
「この向こうにも何かあるんでしょうかね?」
「さあ、行って見ないと分からんが……もしかしたら建物がこっちの方にもあるかもしれない」
 そこからしばらく進んだ所で、急に洞窟の天井が高くなっていた。私は一旦立ち止まり、辺りを懐中電灯で照らしてみた。見ると、先に分かれ道が見える。
 そして、そこの壁には……“GATE”と書かれた板が貼り付けてあった。
「ホーネットさん!! 板が打ち付けられてますよ!」
「……先に誰かここへ入った者がいるのか……? とにかく、こっちへ進んでみよう。片方の道は後回しだ!」
 私たちは通路を右折し、走り出した。すると……行く先に、大きな門が見えてきた。……門は、確実に人の手によって造られたものなのであろうが、その恐ろしく、狂気を宿したようなデザインは人間によって生み出されたものとは到底思えなかった。

「なんでこんな所に門が……」
「自然にこんなものができるわけありませんしね……誰が作ったんでしょう」
「分からんな……とにかく、開くだろうか?」
 私とホーネットは、門の取ってを掴むと、思い切り引いた。すると……随分頑強そうに見えた門にも関わらず、いとも簡単に開いてしまった。……何故か、それと同時にまたあの頭痛と、吐き気が襲いかかってくる。
「……開いたな。……なんだか、吐き気がするのは私だけか?」
「い、いえ……何かおかしいですね。空気が古いんでしょうか?」
「中にガスが溜まってるようじゃないし……とにかく、進んでみよう」
 私たちは、ゆっくりと洞窟の中を進んでいった。頭痛はかなり酷い。一体何なのだろうか? そして……なんとか吐き気を抑えながら通路を進んでいくと、やがて部屋のように少し広くなった空間にたどり着いた。
 部屋の真ん中にはまるで翡翠のようになめらかな碧色をした箱があった。これは……そう、昨日洞窟で見た、棺桶……
「……ここにも棺桶があったのか……」
 ホーネットは棺桶に近づき、注意深くそれをじっと眺める。彼はそうでもなさそうだが、私の頭痛はだんだんと酷くなってきた。今ここで吐いて良いものなら吐いてしまいたい。
「……ホーネットさん……気分が悪いです……戻って門の前で休んでていいですか?」
 ホーネットは棺桶から目を離さぬまま答えた。
「ああ、大丈夫か? 調査は私がしておくから、休んできなさい」
 私は頭を抱えながら通路を後戻りした。──どうにも、そろそろ頭が痛くてたまらない。私は、門の前まで戻ってくると、地面に座りこんだ。暗い通路に自分の荒い呼吸音が響いている。




13.ルルイエ


 通路の奥で、何やら大きな音がした。何があったんだ? ホーネットが棺桶の蓋を開けたのだろうか。……いや、そんなものじゃないな。何かを床に落とした音で……
「うああああぁぁぁぁ!!」
 通路の奥底から、おぞましいホーネットの叫び声が聞こえた。私は咄嗟に立ち上がり、門の所から向こうへ呼びかける。
「どうしたんですかホーネットさん! 大丈夫ですか!?」
「ああああぁぁぁぁっ!!」
 ──すぐに、その声は途絶えた。私は、吐き気も治まらないまま通路を走り出した。部屋までたどり着くと、私は思わずその場で嘔吐しそうになった。
 ホーネットが、頭から大量の血を流し、死んでいた。棺桶の角には血液が付着している。
「ホーネットさん! おい、ホーネットさん!!」
 私は慌ててホーネットの体を揺さぶった。彼の額は割れており、中に白い固体が見えていた。これは、事故……いやそれは違うだろう。この様子から見て……彼は何度も棺桶の角に頭を打ち付けている。
 ──自殺だ。


 突然吐き気が込み上げ、私は近くの床へ吐き出した。……何なんだ? く、くそっ……頭がおかしくなってしまいそうだ! 私の心の奥底から、何やらとてつもない恐怖の波が押し寄せてきた。頭が、痛い! ぐっ……う、うわあぁぁぁぁっ!!
 私は、思わず叫び声を上げた。このまま、ここに留まっていれば発狂してしまう! 私はふらつきながら、全速力で通路を、洞窟を後戻りした。
 長い通路を抜けると、再びあの、広大な空間まで戻ってきた。ここへ来るまでにも、もう何度も胃の内容物を吐き出している。行く先には……脚立が架けられた、大きな亀裂。
 また、ここを渡らなければ……!
 だが、今の私にそれは全く恐怖でも何でもなかった。今や私の心は凄まじいほどの悪夢で満たされている。とにかく、一秒でも早く、安全な場所へ行きたい。恐怖から逃れたい!! 私は、ほとんど立ち止まらずに、一気に脚立を走り渡った。
 その時の衝撃で、脚立は谷の端からずれ落ち、果てしない暗闇の底へと落ちていった。地面に脚立がぶつかる音さえも聞こえない。私はすぐにまた走り出した。早く小屋へと戻らなければ、そうだ、早く外へ……
 私は広大な洞窟の中を、出せる限りの力で走り続けた。まるで脳内で出血でも起きたかのように、頭が痛む。私は、一旦立ち止まるともう一度床に嘔吐した。
 息を荒げながら、再び走り出し、ようやく出口へと繋がる、梯子の元までたどり着いた。


 私の手から、懐中電灯が滑り落ちた。小屋の地下洞窟へと続く縦穴の前に、何者かが立っている。
 ──ミイラだ。あの、建物の棺に眠っていたミイラが、私の目の前に立っている。妖しく緑がかった体色と、ぬるりとした質感の長い手足……。それは、昨日まで地下深くで眠り続けていたものとはとても思えなかった。
 私は、声も出ないままその場に立ち尽くした。全身を絶えず悪寒が駆け巡り、体中の筋肉は強張って動かない。そのミイラは、ゆっくりと私の方へ向かってきた。だめだ……体が動かない。
 頭が、何も考えられない。思考が停止してしまっている。おい、来るな! 止まれ! 誰か! 助けてくれ!! うわあぁぁぁぁっ!! やめろ来るな! 来るなあぁぁぁ!! あああああぁぁぁぁぁっっ!!


 ──それから、私は何も憶えていない。意識はそこで途切れ、目の前は暗転してしまった。何があったんだ? ホーネットに、何があったんだ? そして……何故ミイラが動き出していたんだ? 何も分からない。
 あの地下洞窟で、私はミイラに捕らわれてしまった。床に転がった懐中電灯の明かりは遠く消えていった。私はどこへ連れられ、今どこにいるのだろうか? 誰か、助けてくれ……私は、どうなるんだ? これからどうなってしまうんだ?
 ──何か、やわらかい板の上に横たわっている感触が伝わってきた。周りは暖かく……とても静かだ。何だか、とても心地の良い空間。このまま……ずっと眠り続けていたいとさえ思った。
『それは、光を浴びることなく知られることなく我々の住む世界の遥か地下に潜み、今も冒涜的な言葉をわめき散らしながら蠢いている。
 こちらは向こうに気付いていない。
 向こうもこちらに気付いていない。
 しかし、何かのきっかけでそれらは繋がってしまうことがあるだろう。
 真実と偽りが螺旋を描き、現実と夢が交差し、見えないことが当たり前だった頃の記憶が遠い過去のものになった時、すでに我々は歪みに巻き込まれているだろう』
 頭の中で突然声が響いた。誰の声だろうか? とても優しいが、荘厳な響きのある囁きだった。
 ……ん? ここはどこだ? 部屋の壁といい床といい、全て真っ白の……殺風景な空間だ。
 私は、起き上がるとそのままベッドへ座った。目の前の人物は、何か私に向かって話しかけてくる。私はまだぼやける視界を振り払うように目をこすった。
 ……白衣、医者の格好をした男が目の前に立っていた。
「どうだい、目は覚めたかい?」


 私は棺桶から飛び退いた。この、美しい石棺に眠っていたのは、そうだ……、ホーネットの死体だ。あの時、岩に自ら頭を打ちつけ、死んでしまった、ホーネットの死体だ!
 私は恐怖と驚きで目を見開いたまま地面に尻餅をついた。……今や、全ての記憶が元に戻った。だが……何という事だ! こんな記憶、戻らない方が良かった!
 そうだ……マイスターは、私を捕らえたミイラだ!! 私が切りつけた奴の顔……あの目……あれは正に……、一体何のために!? 私をどうしようとしていたんだ!?
 何故、あんな病院に閉じ込めて……
 私は思い切り地面に向かい嘔吐した。……頭が痛い!!
 もう、耐えられない! 誰か助けてくれ!! くそっ……!! だめだ、死にたい! 殺してくれ! 誰か殺せ!! 殺せ殺せ殺してくれ誰か早く私を殺せえぇぇぇっ!!
「うああああぁぁぁぁっ!!」
 床に落ちていたナタを必死の思いで掴み取る。早く、一秒でも早くこの恐怖から逃れたい、死にたい!! 私はナタを逆手に持つと、思い切り自らの腹を切り裂いた。腹部に赤く走った一文字から溢れるように大量の血が流れ出す。内臓が裂け目から飛び出し、長い腸が垂れ下がる。目の前が暗くなっていった。やったぞ、やった……これで……
 死ねた。








エピローグ


 レオンが突然話しかけてきた。
「なあ、そういえば……あの、ホルコットの廃墟の事件があったろ」
「……ああ、そうだな」
 マークはファイルを整理する手を止めた。
「あの患者は、今どうしてるんだ? スミスだよな」
 段ボール箱に押し込められているファイルの束を両手が抱え、本棚の近くまで運ぶ。
「あの患者は、一冊本を出したよ。事件の全貌をつづったスプラッタ・ホラーをね」
 レオンはたちまち笑い出す。
「違う違う。もうお前の所にいないんだろ? 今はどこにいるんだ?」
「ああ、あれはな……、彼には、その後さらに精神疾患が悪化してな。地方の療養所へ行かせたんだ」
 マークは一度溜息をつき、部屋の椅子に座った。
「マイスターという精神科医が郊外の方に医院を持っててな。彼が事件とスミスについて興味を持ったらしく、自分から引き取りに来たよ」
 レオンが両手を伸ばし大きく伸びをする。
「そういえば……ウェルニッケ山の方でも人が二人行方不明になったよな。ホルコットと違ってまだ死体は見つかっちゃいないけどさ」
「死んだと決まってはいないだろう?」
 マークは椅子から立ち上がり、また本棚へ向かった。
「いやいや、だって二人がいなくなったのはホルコットの事件より前の話だぜ? いくらなんでももう死んでるよ……魔神の神隠しにでも遭ったかな」






原作
Yog=Sothoth by DarkWorld「涅槃2〜Darkness Fantasy〜」 http://giger.hp.infoseek.co.jp/
Howard・Phillips・Lovecraft&August・William・Derleth by Cthulhu Mythos


この物語は、上記原作をсураが独自に文章化したものです。
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