涅槃






 我々の周りには善の秘跡と同様に悪の秘跡があり、
我が信じるところでは、我々は未知の世界、
すなわち洞窟や影や薄明に棲むもの達の存在する場所で、
生を送り活動を行っているのである。
人間が時として進化の途を逆行いたすこともありえるし、
おぞましい伝承の知識未だ滅びずというのが、
我が信念に他ならない。
 ──Arthur Machen



プロローグ  1.  2.  3.  4.  5.  6.  7.  8.  9.  10.  エピローグ




プロローグ


 “それは、光を浴びることなく知られることなく我々の住む世界の遥か地下に潜み、今も冒涜的な言葉をわめき散らしながら蠢いている。
 こちらは向こうに気付いていない。
 向こうもこちらに気付いていない。
 しかし、何かのきっかけでそれらは繋がってしまうことがあるだろう。
 真実と偽りが螺旋を描き、現実と夢が交差し、見えないことが当たり前だった頃の記憶が遠い過去のものになった時、すでに我々は歪みに巻き込まれているだろう“


 マークは顔を上げ、彼の漆黒の瞳を見つめた。
「これは、君が書いたんですか?」
 マークは男から手渡された一冊のハードカバーブックをじっと見る。


 “背中が痛い。固いマットレスだけが敷かれた粗末なベッドの上に、私は何時間寝ていたのだろうか? ゆっくりと上半身を起こし、辺りを見回した。
 ──ここは、どこだろうか?
 白く塗装された壁は所々茶色く汚れ、いくつもの亀裂が走っている。床に敷き詰められたタイルもそのほとんどが割れてしまっていた。この景色を私は見た覚えが無い。
 本当に、いつの間にこんな所へ来たのだろうか。とにかく、この部屋から出よう。
 ……私はようやくその部屋の異常さに気付いた。この部屋には窓も、ドアさえも存在しないのだ。では、私はどこからここへ入ってきたのか?
 後ろを振り返った。
 床の隅のタイルは全て剥がされ、剥き出しになったコンクリートの地面に大きな穴が開けられていた。この部屋と外部を繋ぐ場所はこれしかないのだが……
 私は穴の中を覗き込んだ。この部屋には蛍光灯がついているが……穴の中は全く見えない。混沌とした暗闇が穴の中でうねっている。この穴がどれだけ深いのかも分からないし、第一ここがどこなのかもまだ分かっていない。せめて、この穴を探るのは昇降手段と明かりを手に入れてからにしよう。
 だが、部屋のどこを見てもそんなものは存在しない。一体どうすれば良いんだ? この穴に飛び込むのか……? いや、穴は予想よりも深そうだ。確実に二メートル以上はある。それに、穴の先に結局何も無かったらどうする? その時地上へ帰るすべは無い。
 悩み、部屋を見回しては頭を抱える私の目に、一つの壁が映った“


「あれから二日で書いてしまうとは……これが全てあなたの体験したことと……」
「はい、その通りです。どうぞ先生、ここで読んで下さいよ」




1.二階 目覚めの部屋


 部屋に一つだけある本棚。この部屋にある家具はベッドとこれだけである。その本棚の後ろの壁が、そこだけ真新しく白い。私は何も入っていない本棚を横へずらし、その壁を調べた。叩いてみると、音が周りの壁よりも反響する。
 この壁の向こうには何か空間があるはずだ! 私は壁を蹴り飛ばした。だが、いくらそんな事をやっても壁を破壊するのは容易い事ではない。部屋に何か──出来ればバールやつるはしのようなものは──無いだろうか?
 しかし……先ほど部屋は何度も見回した筈だ。当然使えそうな物は何一つ無い。
 私は、その時何気なく天井を見上げた。いくつものパイプが交差するその上に、一本の鉄パイプが引っ掛かっている。あれなら……壁を壊せるだろうか?
 私はベッドをその下まで動かし、上に立って手を伸ばした。その鉄パイプは、多分上のパイプのどこかのちぎれた部分だろう。両端が錆びて腐っているところを見るとパイプの連結部が錆びて取れたらしい。私はベッドから下り、パイプを構え壁の前に立った。
 勢い良くそれを振り下ろす。
 最初は、まるで駄目だったが、何度もパイプで叩くうちに壁は崩れてきた。その先には──私が予想した通り──もうひとつの場所が広がっていた。
 私は鉄パイプを本棚の中に置いた。壁に開けた穴の先を覗く。
 そこは、部屋ではない、ドアが壁に連なる長い廊下だった。リノリウムの床にはやはり亀裂が入っており、壁にもいくつか穴が空き鉄筋が見えている。この建物は、どれほど前に建てられたものなのだろうか? どこを見ても老朽化は著しい。しかし……この建物はどこを見ても窓が存在しないのだ。外部の様子は全く窺えない。私は廊下の先を見渡した。
 廊下から見えるドアは全部で五つ。そのうち二つは木の板で封鎖されていて入れない。私は廊下を歩いていった。
 一つ、ドアが開きっぱなしの部屋がある。私はその中を覗いた。
 男──何故か上半身裸──がこちらに背を向け椅子に座っている。私は一歩部屋に入る。
「すいません、あの……」
 ……何の反応も無い。私は彼に近づいた。
「うわあぁぁぁぁーっ!!」
 その男は、死んでいた。誰かに殺されていた。無残にも眼球は両方ともくり抜かれ、腹は真一文字に切り裂かれていた。本来そこにあるべき内蔵は、全て抜き取られている。
 ──初めて、人間の死体を見た! それも、目玉と内臓を取られた惨殺死体……急に胃の底から何かこみ上げてきた。こんな部屋に一秒たりとも居られない! 慌てて部屋から飛び出し、ドアを思い切り閉めた。
 まだあの男性の、目玉の無い混沌の暗闇が網膜に焼き付いている。私はまだ息も荒いまま壁に背をもたれ、床に座り込んだ。何なんだ、この建物は!? 死体が部屋に置いてあるなんて!
 いきなり、一つドアを挟んで向こう側のドアが開いた。私は咄嗟にそちらの方を見る。部屋の中から、一人の大男がゆっくりと出てきた。
 彼の顔は──何で塗ったか知らないが──真っ白に塗りたくられている。思わず立ち上がり後ずさりした私を非常にゆっくりと追いかけてきた。右手には、血がこびり付いた大きなナタを持っている。まさか、この男があの部屋の男性を殺したのか!? 足元から恐怖が沸き上がってくるのが感じられた。
「うわあぁぁぁぁ!!」
 私は、叫びながら後ろへ走り出した。殺される! 私もあの惨殺死体と同じ運命を辿るのか!? 急いで先ほど壁に開けた穴から部屋の中へ逃げ込む。本棚を元の場所へ戻し、道を塞いだ。
 多分白塗りの男はもうすぐこの部屋まで辿り着くだろう。あの男はかなり体格が良かった。この本棚など簡単に破壊されてしまうかもしれない! 足が震え出した。頭が麻痺してしまったように混乱している。
 白塗りの男が奇妙な雄叫びを上げた。そのまま私が押さえている本棚に突進する。予想通りというか、本棚はすぐに軋みはじめた。もう駄目だ、こんなものでは耐えられない!
 私が本棚から手を離した直後、本棚はバラバラに砕け、床に木片が散らかった。恐ろしさで先ほど出た悲鳴も出てこない。なおもゆっくりと白塗りの男は私を追い詰める。私は必死に逃げようと男から後ずさったが、すぐに壁に背中がぶつかってしまった。
 もう、殺されるのか……? すべてがスローモーションで動き始めた。何か無いか。この危機から少しでも脱出できれば……!!
 視界の隅に何か飛び込んできた。
 足元に目を移す約一秒が何分間に感じられただろう? 私のすぐ足元に鉄パイプが転がっていた。
 男はナタを大きく振り上げる。
「ウオォォォォー!!」
 鉄パイプを手に取るが早いかそのナタが私の体を切り裂くが早いか、右手で鉄パイプを握り締めた。ほとんど一瞬の出来事である。振り下ろされたナタは私の左肩を少しかすめる。私は、鉄パイプを両手で握り、男の頭目掛けて思い切り殴りつけた。
「い……い……た、い!!」
 男は痙攣する口で言う。振り向き私を見つめた。もう一度彼の頭を殴りつけた。額が切れたのか、鉄パイプには血液が付着していた。深紅の血液が私の恐怖をより増幅させる。私は、その男を殴り続けた。
 着ていたシャツには返り血が飛び散り、男の頭、そして顔全体までが血まみれになっていく。もう何発殴りつけたかわからない。白塗りの男は床に崩れ落ちた。
 ようやく私は我に返ったようだ。鉄パイプを床に投げ捨てる。私は──例え正当防衛と言えど──人を殺した! 鉄パイプで頭を何度も叩き、その結果床には頭を割られて死んだ男が倒れている。部屋には血生臭い空気が漂っていた。
 残ったのは……なんとも言えない罪悪感と、自分の内部から生まれてくる恐怖。私はベッドに腰を下ろした。目の前には白塗り男の死体がある。少し考え込んでから立ち上がり、彼の死体を引きずって部屋の隅の穴に投げ捨てた。
 これが、今の私に出せる答えだ。
 ……このまま、この部屋に留まっていれば確実に私は殺されるだろう。私は、今は赤黒く光る鉄パイプを持ち、壁に開いている穴から部屋を出て行った。




2.二階 廊下


 再びあの廊下へ戻ってきた。
 あの白塗りの男が出てきた部屋、もしかしたらそこが出口なのかもしれない。私は開きっ放しになっているドアの前に立った。まだ、白塗りの男の仲間が中にいるかもしれない。鉄パイプをいつでも振り回せる体勢に構え、部屋の中に勢い良く踏み込んだ。
 部屋を見渡す──案の定、中には誰も居なかった──が、そこはただの部屋。出口は無い。置いてあるのはベッドとテレビ、それに接続されているビデオデッキだけだ。
 あの男は、ここで何をしていたんだろう? あの男がテレビを見ながら昼寝なんて不気味過ぎる。試しに、テレビの電源を入れてみた。……砂嵐しか映らない。普通の番組は受信していないのか? チャンネルを一周しても何も映らないまま。
 ──ベッドの上にリモコンが落ちていた。そうだ、ビデオはどうだ? デッキにはテープが入っている。デッキの電源をつけ、リモコンの“ビデオ”ボタンを押した。再生の三角マークを押すと、それは始まった。


 見知らぬ男性が、また見知らぬ部屋で何か喚いている。ビデオの視点は、天井に設置されたカメラからだろうか?
「やめろ! 頼むから、やめてくれ!!」
 私は絶句した。
 男性の目線の先には、あの白塗りの男が立っていた。ナタを手に持っている。
「うう、うへへへぇ……」
 白塗りの男が不気味な笑い声を上げるたびに、口から唾液が流れ落ちる。
「やめろ! 誰か!! ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
 男性の首筋に向かいナタが振り下ろされた。鮮血が首から吹き出し、部屋の壁が紅く染まっていく。崩れ落ちた男性を白塗りの男は片手で抱き上げると、壁に空いた穴へ消えていった。
 テレビ画面が真っ青に変わる。テープに録画されていたのはこれだけだ。
 私はテレビの電源を消し、愕然とした。このテープは明らかに殺人の現場を録画したスナッフファイルだ! あの男は──目的はわからないが──ああやって人を殺し、それをテープに収めている。恐らく……私の部屋にも監視カメラのような物がついていた筈だ……
 しかし、あの壁の穴はどこに繋がっているのだろう? 部屋の風貌からしてあの部屋はこの建物のどこかだと思われるが、どうにも木の板で封鎖されて調べようが無い……
 だが、ふと手を思いついた。私は立ち上がり、自分が目覚めた部屋まで走った。


 ──白塗りの男を穴に突き落とした時に、ナタまで捨てなくて助かった。このナタならば……木の板の封鎖も壊せるだろう。しかし、ナタの刃はほとんど全ての部分が赤色に染まっていた。これで殺した人間はビデオの彼だけでは無いだろう……
 私は封鎖されているドアの前に立った。とりあえず片っ端から開けていこう。ドアにナタを思い切り振り下ろす。何度か切りつけているうちに、封鎖は破壊した。
 ドアをなんとか開き、中に入る。
 ──そこはベッド以外何も無い殺風景な部屋だった。ただ……ベッドシーツは大量の血液で黒く染まっている。私は急いで部屋を出た。この血の臭いには耐えられない。
 多分、この部屋でも殺人が行われたのだろう。ただ、死体がどこにも無い。白塗りの男がどこかへ運んでいったのだろうか?
 私は気を落ち着かせると、隣の部屋のドアに切りかかった。力づくでドアを蹴り飛ばし、私は驚愕した。
 あのビデオに映っていた部屋だ。壁にはあの映像と全く同じように血が飛び散っている。そして……壁の穴もある。
 穴に近づく私は、足元に違和感を覚えた。何か踏んづけている。左足をどけると、その床には一つ小さな鍵が落ちていた。何だろうこの鍵は……一応ズボンポケットにしまい込む。
 私は穴の中へ入っていった。どうやら隣の部屋へ繋がっているようだ。
 私が部屋に踏み込むと、女性が叫び声を上げた。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
 ……まだ、生存者がいたのか!! 女性はベッドに両手を交差させた状態で手錠をつけられ、身動きができないようだ。しかし、身をよじりなんとか私から逃げようとしている。
「やめて! 誰にも言わないから! 早く外して!!」
 ふと横を見ると……黒いソファーに死体が三体、座らされていた。私は彼女に近づいた。
「落ち着け、私は……君と同じだ! 被害者だ!」
 女性の目から涙が一粒流れた。頬を伝いブラウスに落ちる。
「う、そ……みんな殺されて! ナタも、服の血は何よ!!」
 自分の服を見てみた。あまり気にしていなかったが……シャツは血まみれである。
「これは、あの、白塗りの男を倒したんだ! 返り血だ」
 彼女は暴れることさえやめたものの、全身を震わせすすり泣いている。私はポケットから鍵を取り出した。
「何するの……!」
「手錠を外せるかもしれないから……大人しくしていてくれ」
 手錠に鍵を差し込み、回すと手錠は音を立てて彼女の腕から外れた。私は急いでもう片方の手錠も外す。彼女は上半身を起こすと、擦り傷ができた手首をかばいながら泣き崩れた。
 ずっと身動きが取れないまま……死体と一緒にこの部屋に監禁されていたのだろう。私の心の底に安堵が広がっていくのが感じられた。私と同じ境遇の、言わば仲間が私に光をもたらしたのだ! 赤の他人に出会っただけの事が……こんなに喜ばしいとは。
「あ……ありがとう、ございます」  女性は腕に埋めていた顔を上げた。目は真っ赤に充血している。
「あ、いや……奴は、もうここにいない。早くここから出よう」
 女性はベッドから降りた。
「そうだ、君の名前は? 私はスミスだ」
「スミスさん? 私は、クリス・ジョンソン」
 クリスはやっと微笑んだ。互いに心の緊張が解けたようだ。
「とにかく、君と会えて良かった! 早く脱出しよう!」
「はい!」




3.二階 小部屋


「目覚めたらあのベッドに繋がれてて、動けなくて……」
 クリスは私の後をついて来ながら話している。人は危機的な状況から安全に解放されるとこのように滔々と話す傾向があるのだ。
「そうしたら顔を白く塗った男が来て『友達を連れてきてやる』って……」
「それがあの死体か……」
 クリスは頷いた。
 廊下へ出る。これで残るドアは一つだ。これも封鎖されていて開かない。どうするの、とクリスが言いかけた所で私は木の封鎖にナタを振り下ろした。クリスは少し唖然としている。
「……こうしないと開かないんだよ」
 私は廊下の床に置いておいた鉄パイプを拾った。そしてナタをクリスに手渡す。
「武器を持っておいたほうがいい」
 クリスは恐る恐る深紅のナタを受け取った。私はドアを何とかこじ開ける。扉の向こうは……、階段だ。だがしかし、階段は床から天井まで全てが青色で塗装されている異常な空間だった。
「下へ続いてる。出口は近いかも……」
 私たちは、青色の不気味な階段を下りていった。
 階段を降りた先は、また先ほどと同じような長い廊下だった。私は左右を見渡した。さて、どこから見て回れば良いだろう?
 クリスが左最奥にある両開きの大きな扉を指差した。
「端から開けてみましょう」
「そうだな……」
 そのドアにノブは無く、手で押すといとも簡単に開いた。部屋は意外と大きかったものの、そこには長テーブルが八つあるだけ。しかし、その長テーブルにはいたる所に血痕がついている。それが何の生物のものであるか……容易に想像できるだろう。
 ここで奴は何をしていたのだろう……? 部屋の向こうに、もう一つドアがあった。そこからは……何かとても嫌な臭いがしてくる。
「怖い……」
 クリスが身を縮めた。
「私もだ。大丈夫だよ……」
 ドアノブに手をかけた。激しい悪寒が全身を駆け巡る。この臭いは、明らかに肉類か何かの腐敗臭……ドアノブをひねり、勢い良くそれを開いた。


 ……最悪だ! そこには、正義など一欠片も無かった!
「いやあぁぁぁぁ!!」
 そこは、少し小さめの調理場だろうか。ただ、ゴミ箱には血と内臓が溢れ、流し台には人間の首二つが押し込められていた。床一面は真っ赤に染まり、肉片に、腸、人の腕までが散らばっている。まさに地獄絵図だ。これ以上の悪夢は存在しない。
「だ、大丈夫か? 君は外で待っててくれ」
「う、うん……」
 口を押さえるクリスの手は大きく震え、目からは涙が溢れている。クリスは部屋を出ていった。私もこんな所に居たくはないが……緋色の血液と吐き気をもよおす腐敗臭で脳がどうにかなってしまいそうだ。
 ……調理場の隅にもう一つ小さなドアがあった。ドアの向こうからは何やら物音が聞こえてくる。生存者か……奴の仲間か? 私は鉄パイプを構えた状態で、思い切りドアを開いた。
「うわあぁぁぁ!!」
 その男は、まるで料理人か何かのような風貌をしており、頭には大きなトック・ブランシュを被っていた。ただ……やはりこの男も正常な人間では無いだろう。彼は、人間の肝臓──と思われるもの──を手に握りそれに歯を立てて食いついていた。
 コックは私を振り向くと、大きく口を開け吠えた。彼の口から肉片と血がこぼれ落ちる。
「ガアァァァァッ!!」
 コックは机の上にあった巨大な牛刀を掴み取り、私に襲い掛かってきた。私は、無我夢中でその場から逃げ出した。
 調理場を出ると、クリスが私の肩を押さえつける。
「どうしたの!? 何があったの?」
 私はすぐさまそれを振り払うと彼女の手を掴み走り出した。
「奴らの仲間だ!」
 食堂を飛び出すと、廊下を私たちは全速力で逃げる。背後からはあの男の咆哮が聞こえた。このままでは……追いつかれる!!
 私は咄嗟に近くのドアを開けた。幸いなことに扉に鍵はかかっていない。中に転がり込み、ドアを思い切り閉めた。……鍵がついていない! 慌ててドアを手で押さえた。
「君も……手伝ってくれ!」
 クリスがドアを押さえようとした瞬間、扉が大きな力で押し返されてきた。二人がかりで押さえても……負けてしまいそうである。このままではいずれ……
「……手を一気に離して、不意打ちだ!」
「わ、分かった!」
 私がドアから手を離すと、次の体当たりでドアは跳ね飛んだ。コックは、一瞬状況が理解できずに立ち止まっている。
 コックの顔面目掛けて鉄パイプを叩きつける。彼の鼻が歪み、血が流れ出した。私は怯えて身動き一つ取れないクリスからナタを奪い取り、両逆手に持った。よろめくコックの右眼にそれを思い切り突き刺す。言葉にならぬ呻き声を上げ、奴はその場に崩れ落ちた。
「……死んだの? 殺したの!?」
 クリスは完全に私に怯えてしまっている。しかし……白塗りの男を殺した時のような罪悪感は私の中にもう無かった。それを感じる余裕は無い。私は彼女に向き直った。
「……いいかい? 私たちは、ここで生き延びなければならない。生き残るためには……もう何も考えてはいけないんだ」
 クリスはゆっくりと無言で頷いた。
 私はコックの右眼からナタを引き抜くと、クリスに差し渡した。自分は鉄パイプを捨て、コックの牛刀を手に掴む。
 辺りを見回しながらゆっくりと部屋を出た。クリスは、少しうつむきながら私の後をついて来た。




4.一階 廊下


 大きな両開きの扉だ。残るドアはこれ一つだけ。二つの取っ手には頑丈そうな錠前がつけられている。ちょっとそれ、と言いながらクリスが私の牛刀を指差した。
「その鍵……ここのじゃない?」
 牛刀の持ち手の端につけられた短い紐の先には、小さな金色の鍵がついていた。錠前の鍵穴とぴったりのサイズである。鍵を緑色に錆び付いた錠前に差し込む。ゆっくりそれを回すと、手ごたえと共に錠前は外れ、床に落ちた。
 私はクリスを振り返った。
「また、奴らがいるかもしれない。武器を構えていてくれよ」
 そっとドアを開いた。が、しかし……そこは部屋ではなかった。大きな木製のロッカーが六つ置かれている。
「ここは……玄関だ!」
 慌てて玄関のドアノブを手に掴む。
「開いてる?」
 頼む……開いてくれ……!!
 得体の知れない廃墟で目覚め、そこには無残に殺されていた人々の死体。襲い掛かってきた白塗りの男と、人を喰っていたコック。ドアの向こうの世界が、この歪んだ世界より少しでもましな場所へ続いていれば良いのだが……
 ──何の音も無くドアは開き、その向こうには、久し振りに見る土と草が顔を覗かせていた。


「ちょっと……これどういう事!?」
 ──まだ終わっていない! 私たちにハッピーエンドは訪れなかった。私たちがいた建物の周囲は、高さ五メートルほどもある巨大な塀で囲まれているのだ。
「まだ……出られないのか……」
 私もクリスも、落胆した。ようやく、この悪夢から脱出できると思ったのに!
「人の気配も……何の音もしないわ。街から遠いみたい」
 正面の塀に巨大な赤い門があったが、それには巨大な錠がついている。鍵穴だけで五センチはあるだろうか? こんなに大きな鍵は建物の中に無かった。ここからの脱出は現時点で無理だろう。
「困ったな……どうにかして壁を越えられれば」
 私は辺りを見回した。草が、何度も人が通るためにそこだけ枯れて出来た土の道が建物の裏側へ伸びている。あそこに何かあるのだろうか? クリスを呼び、その道を追う。
 そこには……ドアがあった。建物の裏口だ。
「また……中に入るの?」
 クリスは明らかな嫌悪の表情を示した。だが、このままここに留まっていれば良くても餓死だ。街からかなり離れていると思われるこの場所でじっと救助を待つのは無謀だろう。
 それに……この先にあの赤い門の鍵があるかもしれない。
「……中に何かあるかもしれない。入ってみよう」
 ドアノブを回すと、幸いにも鍵はかかっておらず、簡単にドアは開いた。
「また奴らがいるかもしれないから、警戒しながら行こう」
 クリスは頷いた。私はドアの向こうへ足を踏み入れる。
 ──また廊下だ。そしてドアは二つ。赤色のドアと、青色のドア。さて、どちらの方から開けようか?
「よし……ちゃんと準備していてくれよ」
 試しに片方の赤いドアのノブを軽くひねってみた。鍵がかかっている。全くドアは動かない。ここは後回しだ。続いて青色のドアを開く……
「まだ、続きがあったようだ……」
 そのドアの向こうには、下り階段があった。やはり前に見たように全て真っ青に塗りつくされている。
「……地下室?」
「ここが一階だから……そうなるな」
 私たちは、青色の階段を一段ずつ降りていった。──段々視界が暗くなってくる。階段の下は明かりが無いのだ。私は立ち止まった。
 暗闇の中、この建物内を進むのはあまりに危険すぎる。もし奴らの仲間が地下にも潜んでいたりしたら、それこそ太刀打ちできない。クリスが上まで戻って明かりを探そう、と言った。しかし……今まで建物の部屋は全て見てきたし、まだ開けていない赤色の扉には鍵がかかってしまっている。
「……ちょっと待ってくれ!」
 私はズボンのポケットに手を突っ込んだ。そうだ、ここに来たのは煙草を買いに来る途中。私はライターを持っていたはず!
 ……助かった! 幸いライターは奪われていなかったし、確かオイルを交換したばかりだ。クリスにライターをかかげて見せる。
「しばらくは視界が確保できそうだ」


 私たちは地下へ降り立った。
 床はリノリウムからコンクリートに変わり、地下独特の冷えた空気が流れている。ライターの明かりはすぐ眼前しか照らすことは出来ず、私は辺りを見回しながら一歩ずつ進んでいた。黄色い煉瓦で造られた空間は廊下のようだった。壁にドアなどは無く、廊下の先は二つに分岐していた。
「……どっちに行く?」
 後ろからクリスが話しかけた。
「こんな所で二手に分かれるわけにもいかないし……」
 その時、私は廊下の先に黄色のドアを発見した。
「……ドアがある! とりあえず直進してみよう」
 私は前に一歩足を踏み出した。
 ──すねの辺りに何か引っ掛かる感触を感じた。それと同時に右の廊下から何か変な音がする。私はひざを慌てて見てみた。何も無い。どうやら狭い廊下の端から端へ細いロープが張られていたらしい。
「なんだこれは?」
 右の廊下から、何かが近づいてきた。




5.地下一階 廊下


「何!?」
 廊下中に滑車が走る音が響いた。牛刀を構える腕が思わず震える。ガシャン、という音がして滑車はその動きを止めた。急いで右手を伸ばしライターで前を照らす。
 巨大な釣り針のような形をした鉄の棒、それが天井からぶら下がっている。
「うわあぁぁぁぁ!!」
 その棒には、真っ青に変色した人間の上半身。彼は苦悶の表情を浮かべ、棒に胸を貫かれていた。天井に取り付けられた金属のレールを滑車は走っていたのだ。だがしかし、何の仕掛けだこれは?
 ふと、滑車がやってきた方から何者かの笑い声が聞こえた。
「イィーヒヒヒヒ!!」
 ──これが普通の人間が発したものではないとはすぐに理解できた。
「早く逃げて!」
 クリスが私の背中を押した。私は全速力で廊下を直進する。そこに黄色に塗装されたドア以外は何もなく、行き止まりである。ドアノブをひねった。ドアを押すと幸いにも、鍵はかかっていない。部屋の中へ二人転がり込んだ。
「だ、誰だお前ら!」
 音を立ててドアを閉め、私はようやく振り返った。部屋にはベッドが一つだけ。……その上には若い男が一人座っている。──三人目の生存者だ!
 彼は立ち上がり私の元へ寄ってきた。
「いいから、君もドアを押さえてくれ!」
 ドアには幸か不幸か、鍵自体ついていなかったのだ。私とクリスが支えているドアを、彼も押し返し始めた。やがて、先ほど廊下で聞いた笑い声の主が追いついてきたようだ。何度も何度もドアを殴り、こじ開けようとする。奴らに共通していることと言えば、この恐ろしい腕力だ。これまで遭遇してきた白塗りの男もコックも、ドアを破壊せんばかりの力を持っていた。ドアの向こうにいる奴も同じく……私が押さえるドアは大きく軋み始めた。
「おいどうすんだよ! 開いちまうぞ!」
 若い男が叫んだ。
「フゴーッ!」
 ドアの向こうでは奴が変な叫び声を上げた。なんだろう、マスクでも被っているのか? いやとにかく、この状況を何とかしなければ……奴のドアを殴る力が少し増した。
「よし、ドアを開けて不意打ちするんだ!」
 クリスが頷いた。
「開けるぞ!」
「待て、俺の武器が無い!」
 男が声を上げた。
「自分でどうにかしてくれ!」
 私はドアを思い切り開いた。
 彼は顔にラバーマスクを被り、ジーンズをはいているが上半身は裸という服装だった。右手には大きなサバイバルナイフを握っている。
「うおぉぉぉぉ!!」
 若い男がラバーマスクの腹を殴った。ラバーマスクは体勢を崩しよろめく。私は、牛刀を両手に持ち彼の腕へ振り下ろした。嫌な感触と共に、ラバーマスクの右ひじから下が無くなる。
「ア、アアアアァァァァッ!?」
 ラバーマスクは奇声を上げた。若い男はラバーマスクを床に押し倒し、手足を押さえた。
「誰か早くやれ!」
 彼の声で心を決めたようにクリスがナタを振りかざした。ナタは深々とラバーマスクの胸に突き刺さる。ラバーマスクはその動きを止めた。何度か声にならない呻き声を上げると、やがて呼吸を止める。


 床にはラバーマスクの右手が転がっている。その手に握られたままのサバイバルナイフを、若い男が取り上げた。
「あ、あなたの名前は……?」
 クリスが聞いた。男はまだ少し私たちを警戒しているようだ。
「……ジョンストンだ。マイケル・ジョンストン」
 私はラバーマスクの胸に刺さったナタを引き抜いた。傷口から勢い良く血液が噴き出す。もう、返り血を浴びることに恐怖を感じなくなってきていた。私は立ち上がり、クリスにナタを手渡す。
「……そうだ、それより、お前らは一体誰なんだ?」
「君も、ここに閉じ込められていたのか……?」
 クリスはナタを少し嫌そうに受け取ると、部屋のベッドに座った。
「ああ、そうだ! 起きたらこの部屋でよ、外を見に出たんだ。そうしたらこいつが追いかけてきて……ここに閉じこもってたんだ」
 マイケルがラバーマスクの腹を蹴り飛ばす。
「待て、落ち着けよ……ここから脱出する方法を考えよう」
「で? 何かいい方法でもあんのかよ先生?」
 私はラバーマスクがはいていたジーンズを見た。ベルト穴から小さな赤い鍵がぶら下がっている。
「……それ、門の鍵じゃない?」
「いや違う。門の鍵にしては小さ過ぎるよ」
 先ほど一階で見た、赤色のドアを思い出した。
「でも、大体どこの鍵かはわかっている」
 マイケルは一度溜息を吐いてから言った。
「どうやらあんたらはここの地理について詳しいようじゃねーか。いいぜ、俺もついてくよ」
 私はマイケルと握手を交わした。
「よし、じゃあ早速一階まで戻ろう! ……私の名前はアレックス・スミスだ」
「私はクリス。クリス・ジョンソン」
 私たちは廊下へ足を踏み出した。




6.地下一階 廊下


「なあ先生、ちゃんとした明かりは無いのか?」
 マイケルが私の持つライターを見て言う。
「途中で懐中電灯が落ちてたんならライターなんて使わないよ」
 廊下を右折──ラバーマスクがやってきた方へ──しようとした所をマイケルが止めた。
「先生、そっちは行き止まりだよ」
「行ったのか?」
 私は階段を上がりながら話した。
「目覚めてまずそっちの方に行ってみたら何も無いからよ、引き帰った所で奴が階段を降りてきたんだ」
「それでずっと閉じこもってたの?」
 クリスの質問にマイケルはうるせえな、とだけ答えた。しかし……まだ生存者がいたとは、また仲間にめぐり合えたとは……私の心から恐怖は段々と消え去ってきていた。目覚めた部屋では、私は一人だった。そこへクリスが現れ……今はマイケルもいる。
 ……また一階に戻ってきた。
「……これが開かなかったドアだ」
 私はドアノブの鍵穴に赤色の鍵を差し込む。
 鍵を回すと、ドアが勢い良く開いた。
 驚く暇も無い。私の目前には全身を黒いマントで覆った謎の男が立っていた。
「うわあぁぁぁっ!!」
 黒マントは懐に手を突っ込むと、血に染まった恐ろしく巨大なハサミを取り出した。
「ハハハハハ!」
 ハサミの刃を広げそのまま突進してくるが、何とかしゃがんでそれをかわす。マイケルが、黒マントの背中をサバイバルナイフで切り裂いた。呻き声を上げて今度はクリスに襲いかかろうとする。私は攻撃を避けた拍子に落としてしまった牛刀を手に取り、立ち上がった。──黒マントが床に崩れ落ちる。
 マイケルのナイフが黒マントの脇腹を貫いていた。床に倒れた黒い布をじっと見る。
「くそっ! 何なんだよてめぇは!!」
 マイケルが黒マントに馬乗りになって顔面を一発殴った。
「こんな所で殺しのパーティーか!? 聞いてんのかおい!」
「やめて、もう、死んでる……」
 私は黒マントのすぐ横に落ちていた大バサミを拾い上げた。俺にくれ、と言ったのでマイケルに手渡す。多分、この大バサミによって、また多くの人が殺されたのだろう……
 不意に私は黒マントの顔を見た。途端に頭痛が走る。
「うっ……」
 だめだ、耐えられない、頭が割れる、痛い、痛い! 頭が……地面にひざをつき頭を押さえ抱え込む。
「どうした先生? 大丈夫か?」
 マイケルの手が私の肩に触れた瞬間、私の視界は真っ白になった。


「ん、もう十一時か……」
「今日は家に泊まっていくんだろ?」
 私はズボンのポケットに手を入れた。……煙草が残り二本しかない。愛煙家である私は、日によって二箱を灰にしてしまう。椅子から立ち上がった。
「ん、どこ行くんだ?」
 玄関まで行き、上着を羽織る。
「煙草がもう無いんだ。ちょっと買いに行く。十分くらいで戻るよ」
「わかったよ」
 ドアを閉め、私は深夜の街を歩いた。道を歩く人も、道路を走る車も見えず、辺りは静寂に包まれていた。──だが、何か変な声が向こうから聞こえてくる。何だろうか。誰だそこにいるのは。声は向こうの電柱から聞こえる。酔っ払いでもいるのだろうか。
 私はその電柱へ近づいた。
「ハハハハハ!!」
 ……黒いマントに身を包んだ男が私に襲い掛かった。叫び声を上げようとしたが、声が出ない、体も、動かない。首筋に小さな注射針が刺さっている。目は霞み、意識が薄れてきた。そして何も見えなくなる。


「どうしたの、大丈夫!?」
 クリスが私の体を揺さぶった。私は、床に倒れていた。
「……思い出したぞ!」
 私はゆっくり起き上がった。
「どうした、何があった先生」
「帰る方法だ! ここから、帰る方法!」
 マイケルの顔に笑みが浮かんだ。
「本当か先生!?」
 いいかよく聞け、と二人を制する。
「今まで、私たちは建物の外の門を通ってここに拉致されてきたと思っていた。だがそれは違う」
「じゃあどこから来たの? 他に出入り口は無いじゃない」
 黒マントを指差す。染み出た血液が床を伝っていた。
「地下だよ! 私は、こいつに気絶させられ、ここまで連れてこられた。その時、薄っすらと覚えているんだが、私は奴に抱えられ、長い梯子を上ってきたんだ!」
 地下への穴はどこにあるの? とクリスが聞く。
「私が目覚めた部屋に穴があったんだ! 多分そこから行けるはず!」
「……じゃあ、俺たち帰れるのか!?」
 私は首を左右に振った。
「まだだめだ。梯子か何かが無ければどうにもならない」
 クリスは、開きっぱなしのドアの向こうを覗き込んだ。やがて部屋の中でクリスが声を上げる。
「ねえ、ここ物置みたい! 梯子があるかも!」
「先生、なんだかもうそろそろ我が家に帰れるような気がしてきたぜ」
 マイケルに続き私も物置へ入った。
「ああ……ようやく希望が見えてきた」




7.一階 物置


 ──クリスが物置の奥から赤い折り畳み式の梯子を持ってきた。物置の中は埃にまみれ、暗闇の中に無数の白い飛沫が飛んでいた。
「あった! 梯子があった!」
 嬉しそうに梯子を抱えて私の元まで戻ってくる。マイケルが梯子を受け取った。
「で……先生が目覚めた部屋はどこなんだ?」
「私が意識を取り戻したのは……二階の小部屋だ。一度そこまで戻らなければ」
 マイケルとクリスが物置を出た。服についた埃を払い落とす。
「おい先生、早く行こうぜ」
 私は物置の棚を開けた。中に蝋燭や懐中電灯は無いか? ライターだけで地下を照らすのは少し無理がある。
「何か、明かりが無ければ」
 蜘蛛の巣が幾重にも張られた棚の中を引っ掻き回す。……古びたオイル式のランプがあった。これで、ここから、この建物から、脱出できる! 助かった! この物置には脱出に必要な物が揃っている。……だからこそここに黒マントが待ち伏せていたのだろうか? いや、今はそんな事などどうでも良い。
 クリスが私を呼んだ。
「二階まで戻ろう、目覚めの部屋までだ」
 私は物置のドアを閉め、二階へと走り出した。


「……これがその穴だ」
 まさか、再びこの部屋に戻ってくる事になるとは……あれからまだそう時間は経っていないものの、今まで色々な事があり過ぎた。私が目覚めたこの部屋が何か懐かしくさえ感じられる。
 マイケルが畳まれている梯子を伸ばした。四メートルはあるだろう。
「先生、下ろすぜ」
「わかった」
 私とマイケルとで慎重に梯子を暗闇へ伸ばす。鉄製の梯子はかなり重いが、ここで落としてしまえば私たちにはもう帰るすべは残されていない。この梯子に、言わば運命がかかっているのだ。
 少しして……闇の中からカツンと響く音がした。私は梯子から手を離し立ち上がる。
「……全て準備は整った。この先に何があるかははっきり言って分からないし、また死体や、奴らサイコパス──精神異常者のことだ──が待ち受けているかもしれない」
 二人は黙って聞いている。
「最悪……この先に鍵がかかっていたりしたらそれこそ終わりだ。この梯子で無理矢理塀を越えて、山を彷徨うしかない」
「分かってるよ先生!」
「私は大丈夫だから……行きましょう」
 握り締めた牛刀の柄をポケットに差し込む。私は漆黒の闇へ続く赤い道を降りていった。


 穴の深さは、梯子と同じく四メートルほどある。梯子無しでは到底降りられない深さだ。一歩一歩ゆっくりと梯子を降りていく。それにしても……もうすぐここから帰れるかもしれない、という事態なのにどうも不安がつきまとって心が晴れない。やはり外の塀を越える方法を選んだ方が良かっただろうか? ──どちらにせよ、もう遅い。
 自分の周りが闇に包まれていく中、様々な想いが胸中を交錯した。やがて……足が、冷えた地面へと降り立つ。
「……地面についたぞ、ここが地面だ」
 私は梯子から数歩下がり二人を待つ。
「何も見えないね……」
「先生、早く明かりをつけてくれよ」
 話すたびに冷たい空気の中を声が反響する。
「ああ、そうだった」
 暗闇の中に、小さな炎が灯り、やがて辺りに光を撒き散らした。
「きゃあぁぁぁぁ!!」
 私は背後を振り向いた。何という事だ。
 私のすぐ後ろ、一メートルも無い距離に男が一人立っていた。男の白く塗られた肌と、頭から流れ出した血に塗れた顔が闇に浮かんでいる。
「ウオォォォォ!」
 男は、あの白塗りの男はまだ生きていた! 男は私に殴りかかってくる。腹部に衝撃と鈍い痛みが走った。
ランプは私の手から離れるとコンクリートの床を転がっていき、その回転を止める頃に明るい炎は消えてしまっていた。
「先生! 早く明かりをつけろ!!」
 周りは何も見えない。二人はどこにいる。白塗りの男はどこにいる? 少し湿った床を手で探ると、指先に固いものが触れた。急いでライターを取り出し、ランプに点火する。
 マイケルが男の前で大バサミを構えていた。クリスはそこから少し離れた所でナタを振り回している。
「死ねえぇぇぇ!!」
 マイケルがハサミの刃を開き、ちょうど黒マントが私にやった時と同じく、白塗りの男の胸目掛け突進した。男はほとんど声にならない悲鳴を上げる。慌てて私はポケットから牛刀を引き抜き、それを握るとその場まで走った。両手で刃を構え、男の前まで行くと思い切り首を横に叩き切った。白塗りの男の口から血が溢れ、吹き出す飛沫が辺りに撒き散らされる。
 クリスが口を手で覆う。私は顔にかかった彼の血を拭った。
「……こんなものに構っていられない……先に進もう」
 もう殺人への抵抗も恐怖も無い。
 私はランプを前に掲げ、地下道を歩き出した。しかし……彼は私に突き落とされてからずっと、この暗闇の中に? まともな人間は、それに耐えられるだろうか? 彼ら、サイコパスには恐怖という概念さえ存在しないのかもしれない。もはや感情までも失ってしまったのか……一体、彼らに何が起こったんだ?




8.地下通路


 私たちは……歩いた。ひたすら地下通路を突き進んでいく。もう何メートル歩いただろうか? まだ、先は見えない。
「疲れたな……」
「俺はまだ大丈夫だぜ。むしろ目が冴えてきた」
 マイケルは血に染まった大バサミをまだ構えている。
「……まあ少し休むのも悪くないけどさ。先生にまかせるよ」
 私は壁にもたれかかり、地面に座った。冷たいコンクリートの感触が伝わる。
「今は、ある程度休息の条件が揃っている。明かりを消してここで一眠りしていくか……?」
「でもよ、また奴らが襲ってくるかもしれないぜ」
 クリスも私に続いて腰を下ろす。
「交代で休んだらどう? 一人が休んで、残り二人が見張る」
「……じゃあ、そうするか」
 私は持っていたランプを床に置いた。オレンジ色の照明が光る。
「君が最初に休んでくれ」
 私はクリスに言った。
「いいわよ。後でいい。私は大丈夫だから……」
「君が一番疲れてるはずだ。順番は関係無いよ」
 クリスは少しの間悩んだようだった。
「じゃあ……眠らせてもらうね……」
 クリスが通路の床に横になる。マイケルが立ち上がった。
「じゃあ先生、俺はこっちの方を見てるから、後ろの見張りについてくれ」
「分かった」
 私がランプの光を吹き消し、しばらく経つと穏やかな寝息が聞こえてきた。


 私は背後を振り返った。
「なあ、せっかくここで出会ったんだ……互いのことについて話さないか?」
「いいぜ、暇潰しになるしな」
 マイケルもこちらに振り返ったようで何やら物音が聞こえた。
「俺は……まあ見た目で分かったかもしれないが、いわゆる不良ってやつだ。実はまだ高校生なんだぜ? ……留年してるけどよ」
「……せめて卒業はしておいた方が良いぞ」
「俺の事心配してんのか?」マイケルの幽かな笑い声が響いた。
「あんたぐらいだぜ……俺にそうやって言ってくれるのはよ……きっと、俺を目覚めさせるために神様が焼きを入れようとここに連れてきたんじゃねえかな」
 地下道の床を静かに流れる冷えた空気が私の顔に当たった。
「俺のはもうネタ切れだ。先生の事を話してくれよ」
 ……私についてか。
「私は……まあ学者の端くれのようなものだった。ミスカトニック大学で考古学を勉強していたよ」
「へえ、やっぱり先生はエリートなんだな」
 私は首を横に振った。が、多分マイケルには見えていないだろう。
「そんなんじゃないよ。それで……遺跡の研究で一度日本まで行ったことがあった。まあ、友達について行っただけだが……」
 ──話す私の横でクリスが起き上がった。
「何だよ、もう起きたのか?」
「ええ……もう大丈夫」
 私はランプに明かりを点けた。光がクリスとマイケルの顔を照らし出す。
「悪い、先生。なんだか俺も眠くなってきちまった。先に寝ていいか?」
「分かった。じゃあクリス、そっちの方を見ててくれ」
 クリスがランプの前に座ると、マイケルは地面に寝転んだ。
「じゃあお言葉に甘えて……」
 何だか、私も少し眠くなってきてしまった。ここに来て一気に疲れが押し寄せてきたのだろう。ランプを消して、クリスに話しかけた。
「なあ、君の事について話してくれないか?」
「え、ええ……いいわよ」
 私は後ろに向き直り座る。
「私は……とある会社でずっと事務の仕事をしているの。ひたすら書類の処理を繰り返すつまらない仕事……」
「君は綺麗なんだから、モデルでもやってるのかと思ったよ」
「そんなの無理よ。これくらいしか仕事が無くて……やがて、人生をつまらないものだと感じ始めてた」
 クリスが溜息をついた。
「ある日、親が突然結婚の話を持ち出したの。見ず知らずの相手と一生を共にしろって……私は、ずっと良い子だったわ……」
 地下道に声が響く。
「……すまないな、そんな事聞いて」
「いいのよ。……つまんない話しちゃった? 次はあなたの事を聞かせて」
「私は、ミスカトニックという大学で考古学を……」
 その後しばらく二人で話すうちにマイケルが起き上がった。


「二人だけで無事だったか」
 マイケルが微笑む。
「次は先生の番だぜ」
 私は立ち上がった。
「じゃあ休ませてもらうよ」
 私が先ほどまで座っていた位置に今度はマイケルが座った。ひんやりとしたコンクリートの床に横たわる。
 ここへ来てから初めての休息……自分の過去を振り返ってみれば、ただ何となく生きてきたような気がする。特にこれといった災難も幸運も無く、目的も存在していなかった。
 しかし、今は仲間たちがいる。私は今までこれほどの“安らぎ”を感じたことがあっただろうか? 今こうしている時にも、いつ奴らが襲ってくるか分からない。なのに、何だか可笑しい話だが、何て心地良い空間なんだろう。そう思っているうちに私は深い眠りに落ち、夢を見ることもなく、ただただ長い休息を味わっていた。
 ──どれほどの間私は寝ていただろうか?




9.地下通路


 ようやく私は目を覚ました。マイケルの声がする。
「先生、待ちくたびれたぜ」
「悪かった。よし、そろそろ先に進もうか?」
 私はランプに火を点す。クリスが眩しそうに立ち上がった。
「みんなで、生きて帰ろう!」
 私は微笑むと、床に置かれていたランプを手に取り、深い暗闇を見据えた。


 またしばらく歩いた。
 もしや永遠に続いているのではないかとさえ思わせるほど、この通路は長い。一体もうどれだけ歩いたのか分からない。だがしかし、果てしなく続くかと思われたこの道にも、終着はあった。行く手に薄汚れた白い壁が見えたのだ。
「……行き止まりだ!」
 その壁にはドアも穴も無く、ただ道を塞ぐように立ちはだかっている。叩いてみてもその向こうに空間があるとは思えず、長い長い道はここで終わっていた。
「嘘だろ!? 帰れるんじゃなかったのかよ!」
「待って、落ち着いてよ……良く考えて!」
 私は壁にもたれかかった。
「こんなに長い通路が行き止まりのはずないじゃない! スミスさんが連れてこられたのならどこかに出入り口があるわよ」
「それを探せってか? この通路をまた逆戻りして? ランプのオイルはいつまでももたねえんだぞ!」
 私は頭を振った。
「おい、喧嘩してる場合じゃない。時間が無いんだ。とにかく……出口を探してみよう」
 ランプを行き止まりの壁に近づけると、足元に一冊の本が落ちているのに気付いた。
「先生……何だそれ?」
 マイケルは私が拾い上げた本を指差す。茶色のカバーがかけられたそれは、どうやら手帳のようだった。
「手帳だ……読んでみるよ」
 私は表紙を開く。


“二月三日
 街からかなり離れたこの場所で、少しでも気休めになるかと思い、今日から日記をつけることにした”
「ここから先はしばらく破り取られてる」
“二月十七日
 歴史的発見だ! この洞窟の地盤の軟らかい所を我々はずっと掘り進めてきた。そして遂に、そこから古代の地層が発見されたのだ! 明日からそのエリアの調査を始める。楽しみだ”
「洞窟なんてあったか?」
 マイケルが言う。
「さあ、分からないな」
 私は次のページを捲った。
“二月十八日
 昨日出土した地層の調査を行った。なんとこの地層は全てが緑の岩でできているのだ。さらに、ここ一帯ではコンパスが正常に機能しない。磁鉄鉱でもあるのだろうか……? 我々は道を進むと、大きな門を発見した。明らかに人の手で作られたものである。我々は門の中に入った”
 ページを捲り、私の声が少し震えた。そこに書かれた文字は手が震えたまま書いたようにおどろおどろしくうねっている。


“今日が何日かわからない
 調査チームの人間はみんな狂ってしまった。もうすぐ私もこの歪んだ波と耐えがたい恐怖に発狂してしまうだろう。あの門を開いてからだ。みんな狂い、誰一人として正常な精神を持っている者はいない。私は、あの門を封印して今これを書いている。この手帳が置いてある所から北に十四メートル。そこに洞窟への穴がある。だが、これを見つけた者よ、容易に近づくべきでない。早く逃げろ!”
「これで……日記は終了している」
「北に十四メートル……」
 クリスが口を開いた。
「……探してみましょう」
「ああ……行ってみる価値はありそうだな」
 私たちは進んできた道を引き返した。一歩一メートルと目測付け、恐らく十四メートルほど戻ったであろう。周囲を見回す。──少し先の方に、周りと少しだけ色が違う、歪んだ壁があった。
「これか……?」
「確かに形がちょっと不自然だよな」
 マイケルは大バサミを取り出した。
「先生! さっさとやっちまおう!」
 私とマイケルは武器の柄でその壁を叩いた。何度か繰り返すうちに壁は崩れ始める。壁は、木の板を貼り付け土をかけた程度のものであり、簡単に破壊できた。恐らく……手帳の持ち主が即席で用意したものなのだろう。しかし、カモフラージュの技術はなかなか高かったため、あの手帳が無ければ発見は出来なかった。
 それにしても……あの手帳を読んだせいで妙な不安感がつのる。私は一歩ずつ、壁に開けられた穴の中を進んでいった。


「これは……何だ!?」
 ──そこは、手帳の内容通り今までの地層とはかけ離れた、緑色の岩の洞窟だった。まるでこの辺り一帯が何かによって汚染されているようにも思えるし、何らかの鉱石を含んでいることによってこのような色彩を放つのかもしれない。そして……この場所にいると何故か頭痛がしてくる。緑色の通路の奥底から何か得体の知れない邪気の波が押し寄せているようだった。
「本当に緑色の岩なのね……」
「きっと、鉱山か何かなんだろうよ! さっさと抜け出そうぜ!」
 私は左手に牛刀を握り締めた。
「ああ、先を急ごう!」
 この先に……一体何があるんだ? ここは普通の洞窟などではない。何か、恐ろしい力によって支配されているような、そんな恐怖を私は感じていた。




10.ルルイエ


 もう、戻るわけにはいかない。この暗緑の空間を私たちはひたすら突き進んだ。
 それにしても、ここまで気味の悪い空間は今まで見た事が無い。今も頭の中で鋭い痛みが響いているし、少し吐き気までしてきた。自然と体が震えてくる。三人でいるというのに、恐ろしい孤独感のようなものと、不安に襲われる。この緑色の空間に長く留まってさえ居れば頭がおかしくなってしまいそうだ。
 地下道を流れていたあの冷たい空気とは違い、何と言えば良いのだろう、生温い風が通路の奥から吹いてくる。まるでここは不快の固まりのようだ。手帳に書かれていた調査チームは、ここへ何を探しに来ていたのだろうか?
 私の先を進んでいたマイケルが足を止めた。


「どうした?」
「先生……分かれ道だ」
 私は地下道で拾った手帳を開いた。
「これによるとこの洞窟には門があるそうだが……」
 目前の二つに分かれた道を見回す。直進する太い通路と、右折する細い道。どちらへ行けば良いのだろう? 前に伸びる通路は、まだかなり先があるらしく、向こうからは不気味に風が流れてくる。右側の通路を覗き込むと、緑色の壁に木の板が打ち付けられ、そこには“GATE”と書かれていた。
「おい、こっちが門だ!」
 私はランプで看板を照らす。
「でも……あの手帳には門を開けたら……」
 マイケルが先に進み出した。
「行かない事にはしょうがねえだろ? 出口かもしれねえし」
 私はクリスを振り返った。
「大丈夫だ。きっともうすぐ帰れるよ」
「うん……」
 私とクリスはマイケルの後を追って歩き出した。
 ──そこには確かに、この手帳に書かれた通りに門があった。この緑の洞窟でさえも異様なのに、この門はそれを越える不気味さだ。直線的なフォルムは明らかに自然の産物などではなく人工的であり、一体何の物質でできているか、金属か非金属かさえも全く分からない。私が生涯見てきた中のどの遺跡や文明にも当てはまらない、奇妙で禍禍しいデザインは私の心に恐怖を植え付けた。
「門が……開いてるな」
 マイケルが門の向こうを覗き込んだ。
 手帳の持ち主はこれを封印した筈ではないのか? だとすれば誰が開けたんだ……
「進むか?」
 私はランプでその先を照らしてみる。門と同じようなデザインの、不気味な床が見えた。
「待ってくれ。また奴らが待ち伏せしてるかもしれないぜ。……俺が先に入って、安全を確認する」
「でも、一人で行くのは危険よ」
 そんなこと分かってるよ、とマイケルが首を振った。
「だけどよ、もし、この先で全員やられたらお終いだぜ? 無事に生きて帰るって約束しただろ」
 私はクリスと顔を見合わせた。
「俺は運動神経には自信あるんだ。誰が一番偵察に向いてるか、分かるだろ先生?」
 このまま……マイケルを行かせて良いのだろうか? しかし、彼の言う通りこの先で三人ともやられてしまっては元も子もない。少しばかり、先の様子を見てきてもらうか……
「分かった。だが無理をするなよ」
「ヤバくなったら自慢の足で逃げ切ってやるよ!」
 私は微笑むとマイケルにランプを渡した。マイケルはランプと大バサミを抱え、ゆっくりと門の向こうへ消えていった。
「……大丈夫かしら?」
「今は、無事を祈るしかない」


 我々は待った。
 脱出への希望と、もしやマイケルが二度と帰っては来ないのではないかという不安。ここへ来てから色々な事がありすぎた。不安、恐怖、監禁、死体、殺人……救いようも無いほどに行き過ぎた悪夢のビジョン。──全ての答えは、この門の先にあるのだろう。私とクリスは、二人無言で彼の帰りを待ち続けた。
 彼が偵察へ向かってから、何分経っただろうか? それからしばらくすると、彼は、戻ってきた! 生きて帰ってきたのだ!
「無事だったか!?」
 私は彼に駆け寄った。怪我は無い? とクリスが言いかけた所で、洞窟内に大きな音が響いた。マイケルがランプを地面に落としたのだ。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「う、うう……」
 マイケルは小さく唸っている。
「う、う……うおぉぉぉぉ!!」
「マイケル!?」
 マイケルの叫びが辺り一面に響き渡った。
「何があったんだマイケル、落ち着け!」
「うああぁぁぁぁ!!」
 マイケルは私の方へ向かい、歩みを進める。何だ? 彼に一体何があった? どうしたんだ。門の向こうで何が起こったんだ。やめろ、マイケル……
 ──そこで、私の意識は途切れた。



「う……うん……」
 私はベッドの上で目を覚ました。まだ意識がぼんやりしている。記憶も錯乱し、何が何だか良く分からない。そうだ……私は……地下道へ降りて、緑の洞窟に……
 私はベッドから飛び降りた。
 マイケルはどこに行った? クリスはどこに行ったんだ!?
「クリス! どこだ!?」
 ようやく気付いた。ここは、私が最初に目覚めたあの部屋だ。茶色く汚れた壁と、タイルの剥がれた床。
 ふと、耳に女性の悲鳴が飛び込んできた。
「お願い! やめて!! 痛い、痛い!!」
「クリス!!」
 間違いない、クリスの声だ。私は壁に空いた穴から飛び出した。廊下へ出て、辺りを見回す。
「クリス! どこだ! どこにいる!?」
 そうだ、もしかして……またあの部屋に? 木の封鎖が破壊されたドアを思い切り開け、壁に開く黒い穴を潜り抜ける。


「うわあぁぁぁぁーっ!!」
 ベッドには、ナタで何度も切りつけられおびただしく出血しているクリスの姿があった。……今までどんな仕打ちにも耐えてきたが、この仕打ちだけは……あまりにも酷すぎる!
 クリスの無残な姿が横たわるベッドの隣に、マイケルが立っていた。
「マイケル……」
 マイケルの右手にはクリスが持っていたナタが握られている。
「あははははははは!!」
 マイケルは突然笑い出した。
「……お前が、やったのか?」
 マイケルは私の問いに答えず、ただ空を見つめ笑い続けていた。
「マイケル!!」
 ──マイケルは笑い声に混じり、何か言葉を発している。
「あははは……んせい、はははは……れを、ろして……ふはははは! たのむ……」
『俺を、殺してくれ』マイケルが言っている。
 マイケルは、ナタを大きく構え私に向かい襲い掛かってきた。私は……持っていた牛刀を構えた。狂った笑い声を発しながらマイケルは空中を切り裂く。固く目を閉じた。そして、私は右手を彼に振り下ろした。


 あの門の向こうに答えなんて無かった!! あったのは……破滅だけじゃないか……私は、ついに仲間をも殺してしまった! 何故だ、何故こんな事になったんだ!
「……スミスさん」
 倒れたマイケルを見つめる私を呼ぶ声がした。
「クリス! 生きていたのか!! 今助けるぞ!」
 クリスは震える手で私の腕を掴んだ。
「……無理よ、もうすぐ、出血がひどくて……死ぬわ」
「弱気になるな! 私を独りにしないでくれ!!」
 クリスは弱々しい声で語り始めた。
「この場所で、初めて会ったわね……あなたがやって来た時、本当に嬉しかった……」
 両手でクリスの手を握る。
「そんな、嬉しかったのは、私の方だ!」
「……時間が無いの、お願いが……聞いて」
 私はクリスの手を強く握り締めた。涙が溢れてくる。
「何だ?」
「最後に、あなたにお願いがあるの……」
 クリスの呼吸が段々弱くなっていく。彼女の顔は酷く青白く……やはりこれでは、助からないだろうか……
「ほら、クリス、何だ? 言ってみろ!」
 クリスは何も答えない。
「クリス、どうした? 早く言ってくれ!」
「あなたの手で、私を殺して!」
「なっ……そ、そんな事は出来ない!!」
 クリスは私の肩へ腕を回した。
「聞いて……もう、意識が薄れてきてるの。こんな最期を迎えたくない……」
 クリスも涙を流している。
「だから、最後はせめて好きな人の手で……」
「………………」
 クリスも、私の事を好きだったのか……?
「あなたは、足手まといの私を、命をかけて護ってくれた。休憩の時だって……気を使ってくれた。あなたの事が、好きになったのよ……」
 クリスはそっと私の頬に口付けた。やめてくれ……こんな結末は……嫌だ……
「あなたとは、もっと前に出会っていたかったわ……」
 私は、マイケルが持っていたナタを拾い上げた。
「……こうするしか……ないのかよ!!」
「さようなら……愛してるわアレックス」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 私は、クリスの胸目掛けナタを突き刺した。クリスは声も上げずにその呼吸を止める。


 私は、また独りぼっちになってしまった。
 仲間たちはもういない。
 すべて、私が殺した。
 そして、私も、いずれ、消えていく。
 この無限の痛みと苦しみの渦の中へ……
 く……くふ……
 ふはははははははははははははははははははははははははははははは!!







エピローグ


 マークは本を閉じた。
「その本が、全てです。くふふふふ……」
 本を返すと、マークはカルテに患者の状態を書き込んだ。ここは精神病院である。してその病院の患者はほとんどが精神に何らかの異常を患っている者。
「君は山奥で一人叫んでいるところを発見されたそうだが……」
 マークはゆっくりと彼に話す。
「君は妄想のあまり人を殺めてしまったようだね? 君の衣服に付着していた血液は全て人間のものだった」
 彼はなおも不気味に微笑み続ける。
「そうだ、その緑の地下洞窟についてもっと詳しく聞かせてくれないかい?」
「くふふふふふ……」
 男は骸骨のように痩せこけ、頬骨が顔に浮き出ている。落ち窪んだ漆黒の瞳がマークを見つめた。
「先生、興味がおありなら、それはあなた自身が見に行けばよろしいのではないですか? 警察の方も色々と捜査を続けていることでしょう。ご同行願っては?」
 彼はもう一度笑い出す。
「……それに、いずれ私もそこへ連れて行かれるでしょう。先生の同行を推薦して差し上げますよ」
 男は静かに話し始めた。


 ……歪んできているのですよ。
 世界は間も無く素晴らしく変化することでしょう!
 ──その日が、待ち遠しくてたまらない!!
 そう……
 涅槃のように……




原作
Yog=Sothoth by DarkWorld「涅槃完全版」 http://giger.hp.infoseek.co.jp/
Howard・Phillips・Lovecraft&August・William・Derleth by Cthulhu Mythos

この物語は、上記原作をсураが独自に文章化したものです。
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