「マヨヒガ」
原作:逢海(小麦畑《http://wheat.sakura.ne.jp/w/》)
文章:сура




〜零〜  〜一〜  〜二〜  〜三〜  〜四〜  〜五〜  〜六〜  〜七〜  〜八〜  〜九〜  〜十〜






〜零〜


 阿木穂山の山道には既に日が落ち、暗闇に包まれていた。灯篭のぼんやりとした橙の火に照らされた砂利を草履が踏み付ける。一人の娘と、その母が手を繋ぎ夜道を二人歩いていた。砂利道の左右に生える竹林は夜の風に時折揺れ、葉がかさかさと音を立てている。歩く二人の影は、灯篭の灯と共にたゆとい、ゆらゆらと不思議な幻影のように幾度も形を変えていた。
 砂利道の先は暗い。だがしかし、二人が道を進むに連れて、道の左右に配置された灯篭へ急に火が灯る。勝手に燃え出す小さな炎を、娘は不思議そうにじっと見つめながら歩いていた。肩まで伸びた髪を、風が少しだけ揺らす。湿った水っぽい空気が山道を流れていた。
「……ねえ、どこへいくの」
「いいところだよ」
「……ここからとおいの」
「もうすぐだよ」
 母に手を握られ、一緒に歩きながら子は話す。
「おまつり、たのしかったねえ」
「ああ…そうだね」
「らいねんも、あるんだよね」
「……ああ、あるともさ」
「らいねんもこれる? また、あたらしいお服、もらえる?」
「……いい子にしてたらね」
「ほんと? じゃあ、いい子にする。このお服もよごさないよ」
「……ああ」
 娘は嬉しそうに微笑んだ。母の顔を見上げ、頬を緩ませて。
 母親は奥歯を噛み締めていたが、その手だけには力を入れぬよう必死に耐えていた。何度も嗚咽が漏れそうになるのを堪え、胸に刃を差し向けられたような鋭い哀しみと怖れをひた隠した。
「たのしかったなあ、おまつり」
 娘はもう一度母の顔を見た。だが、そこに母の姿は、もう無かった。繋がれていたはずの右手にはもう何も無い。遥か後方で誰かが走り去る足音がする。必死に走るその音も、すぐに消えてしまった。娘は、暗い夜道に独り残される。
「……おかあ、さん? どこ?」
 娘は突然不安そうにきょろきょろと辺りを見回し、母の影を追おうとする。すると、突然、闇に染まっていた空から無数の、光る笹の葉のようなものが落ちてきた。ひらりひらりとそれは砂利道の上に落ち、雪のように溶けて消える。風に舞っては儚く消えて、その光を散らしていた。
「なんだろう……これ、はっぱ?」
「さあ、こっちへおいで」
 長く伸びている、道の暗がりからいきなり声が聞こえ、娘は飛び上がった。やがて二、三歩地面を踏む音が聞こえ、姿を現す。
 砂利道の上に、老婆が一人佇んでいた。顔面に深く刻まれた皺は老いぼれた印象だが、その眼差しは冷たく輝いていた。一瞬、老婆の影が残像のようにはためく。その姿は時折、向こうの景色を透過しているように見えた。半透明とでも言うべきか、老婆の姿はまるで幻のようにはっきりとしない、普通の人間としては有り得ない面影を持っていた。
「……おばあさん、だれ?」
「誰でもないのさ」
 老婆は娘の手を握り、暗がりの中へと連れて行く。
「どこへ、いくの?」
「いいところだよ」
 娘と老婆の姿は、橙色の光と共に、深い闇の中へ消え去っていった。舞い散っていた光る葉はそれと同時に輝きを失い、また元の景色に戻る。 ぽつぽつと立っていた灯篭の明かりは、ひとつずつ見えない風に吹かれて消えていった。




〜一〜


「さあ、ついたよ。ゆっくりしておいで」
 娘は、小さな座敷に敷かれた座布団の上に座っていた。目の前の老婆はこちらをじっと見ている。部屋は畳八畳敷き、窓は無い。部屋にあるものは小さな桐の箱と、部屋の隅の座布団。その上の巾着袋のみ。壁には二つの提灯が下げられ、その淡い光が老婆の顔に浮かぶ皺を深く際立たせていた。
「ここはどこ? ねえ、おかあさんは?」
 驚いて周囲を見回した。再び不安の表情を浮かべる。老婆はそれを薙ぎ払うかのように答えた。
「いないよ」
「……ここには、いないの?」
 娘はこの状況を必死に理解しようとする。緊張と不安で全身は強張っていた。
「お母さんなんてものはもういないよ」
「……じゃあ、おうちにかえる……」
 懇願するかのように娘は老婆の顔を見つめた。しかし老婆の顔は常に無表情だった。こちらの言葉全てを受け流しているかのよう。
「お前さんは、もう帰れないよ」
「え……」
 ほんの少し、娘の肩が震えた。思考が限界に達する。目に涙が滲み、老婆の顔が歪んだ。この場所が全く理解できず、娘はひたすら口を堅く結んでいる。老婆は後ろへ向き直りながら言い聞かせるように言った。
「お前さんは、もうここの子なんだよ」
 部屋の入口、格子戸の前に置かれていたものをこちらへ差し出す。なめした笹の葉に包まれた、握り飯が二つ並んでいる。
「さあ、これでも食べておいで。それと、この部屋から出ちゃいけないよ」
 老婆は立ち上がると、そのまま部屋を出て行った。格子戸を閉める直前にその手を止める。
「……お前さんが食べられたいのなら、別だがね」
 静かに戸を閉めると、その向こうで何かをつっかえる音がした。戸を開けられないよう棒でも張ったのだろう。
 一人部屋に残された娘は、また部屋の内部を見回していた。ここは一体何処なのだろう。内装は今まで見たどの家より豪華で、板張りされ漆喰で固められた壁、新品のように薫りが良くなめらかな手触りの畳も、まるで触れた事が無かった。
 そして目線は目の前に置かれた握り飯へ移る。米はこのような色をしていただろうか、と一瞬思った。これは白米だ。祭りなどの祭式でしか見た事が無い。普段食べている粟や稗などとは全く違う、純白の穀物だった。海苔が巻かれているのも初めて見る。ごく一部の裕福な者のみが食べる事ができるであろうものだった。この部屋もこの状況も飲み込めていないが、彼女の思考は全て目の前のそれに向けられていた。思わず手を伸ばす。まだほんの少し暖かかった。一瞬それを口にするのを戸惑ったが、構わずに取り上げる。
『ちょっと待った。それを食べちゃいけないよ』
 娘は飛び上がるようにして驚いた。握り飯を取り落としそうになるが、そのまま笹の葉の包みへ戻す。怯えた様に身を縮こまらせ、辺りを凝視した。
『そうそう。それは食べちゃいけないんだよ』
 声の主は見つからない。格子戸の向こうからのものでは無いようだった。部屋のどこから聞こえているのかは分からない。
『こっちだよ、こっち。そこの玉を持ってきて、ここに入れてごらん』
 部屋の壁に掛かっていた提灯のうち一つの炎が一瞬揺らめいて消えた。そして再び燃え出す。
 提灯に入れろと言うのだろうか。しかしどの玉だろう。娘は困惑したが、必死にそれを探す。部屋の隅の桐の箱を開けようとしたが、鍵が掛かっており開けることはできない。後ろを振り返ると、二枚重ねられた座布団の上に麻で作られた巾着袋があった。袋の入口は赤い紐で固く結ばれている。それを手に取ると、恐る恐る紐を解き、中を覗きこんでみるとそこには、黒い玉がいくつか入っていた。
 先ほど炎の揺らめいた提灯の前に立つ。袋から黒い玉をひとつだけ取り出した。べたべたとした質感の、油の固まりのようだった。松脂の塊かもしれない。背伸びをしてようやく手の先が提灯に届いた。思い切って玉を提灯の中へ投げ入れる。
 途端に炎が燃え上がり、提灯の明かりは部屋全体を煌々と照らし出した。
「やあ。はじめまして」
 先ほどより声がはっきりと聞こえる。何処に居るのだろう。相変わらず姿は見えなかった。後ろを振り返っても何も居ない。だが、視界の片隅に何かが写った。自分の影だ。手を振っている。娘は自分の目を疑った。提灯の明かりに映し出された自分の影が、こちらへ向かって手を振っているのだ。
「驚いてるね。おいらは影小僧ってんだ」
 娘は黙って自分の足元を見つめた。畳に投影された影は、滔々と話し掛けてきている。
「君、ここに来たばかりだろ。で、ここから出たいと思ってんだろ。出たいのなら、協力してあげる。おいらは結構やさしいからね」
 少し怯えながらも娘はゆっくりと首を縦に振った。足元の影小僧の首は動かない。自分の動きからは独立しているようだった。娘が頷いたのを確認すると、影小僧は畳の上に置かれた握り飯を指差した。
「まず、ここで出されたものは食べてはだめだよ。戻れなくなるからね……。あと、ここにいるやつらに見つかったら、食われてしまうよ。まあ全部が全部じゃあないけど。こっそり隠れてるやつなら、たぶん人間を怖がってるから食べないよ」
 娘は黙ってこくこくと頷いた。不安な心が解消され、少しばかり落ち着いてきているようだ。
「さあ、出るなら早くしないとだめだ。早くしないと……。もし、分からないところがあったら教えてあげる。この屋敷の提灯に、今とおんなじように玉を入れな」
 娘は袋の口を開いて、中の玉を確認した。
「……玉はあと三個か。じゃあ、あと三回だね。気をつけて使ってね。その玉が無けりゃおいらは力を出せないんだ。影だからね」
 話し終えると影小僧は娘の足から離れ、ただの床に写る黒い影になった。そのまま床を滑るように移動し、格子戸の下を潜り抜け部屋の外へ這い出す。やがて戸の向こうで、からんと何かが落ちて転がる音がした。そのまま向こうから影小僧の声が聞こえる。
「さあ、扉を開けてあげたよ。じゅうぶん注意して行くんだよ」




〜二〜


 そっと、音を立てぬようにして娘は格子戸を開いた。その隙間から顔を出し、部屋の外の様子をうかがう。
 格子戸の向こうは長い廊下のようで、美しく板張りされた床や壁は座敷と変わらず豪華な装いだった。部屋から見て廊下の左は行き止まりで、小さな燈台があり、油に漬かった木綿糸がちろちろと燃えているだけだった。右側には通路が長く続き、途中に障子が張られた格子戸。さらに直進すると廊下はまた折れ曲がっていた。
 できるだけ足音が立たないように、座敷の畳から廊下の床板へ足を踏み下ろす。幸いにも床板はしっかりとしているようで、床板が軋んだり、足音が響く気配は無かった。ふと足元に木の棒が転がっているのを見た。戸をつっかえて封じていたものだろう。拾って、武器のように構える。だがこのような細い木の棒に、この娘の非力な腕では到底自らの身を護る役目は果たせそうに無い。
 娘は棒を構えつつもそのままゆっくりと廊下を歩き出していった。障子の部屋の前まで差し掛かる。障子紙は部屋の明かりで透け、中に居る二人の人物の影が投影されていた。娘がまだ座敷に閉じ込められていると思ってか、大声で話し込んでいる。
『……新しいのが来たんだって?』
『ついさっき来たそうじゃよ。それがまた……』
『聞いたとも。うまそうな女の子だそうな』
 声からして、先ほどの老婆。もう一人はよく解からなかったが、同じく年を取った女であることは声からして解かる。
『今度こそ食えるかねえ』
『さあどうか。でも、食いたいねえ』
 娘は急に恐ろしさを感じ、数歩後ろへ下がった。影小僧の言っていた事を思い出す。
『まさか、逃げ出したりせんじゃろねえ』
 障子の向こうで片方の老婆が立ち上がり、廊下の様子を見ようと格子戸に手を掛けた。娘は思わず悲鳴を上げそうになり、どこか身を隠す場所を必死で探した。だがしかしもう一方の老婆が声を上げる。
『大丈夫じゃろ。扉は閉めてあるし、ろくろ首に階段は見張らせてあるよ』
『でもねえ、あいつは意地が汚いじゃないか』
『油のことかい?』
『いやいや、もしその子を見かけたら、こっそり食べちゃうんじゃないだろうねえ』
『おいおい、そりゃいけねえなあ』
『しかし、今度こそ食えるかねえ』
『さあどうか。でも、食いたいねえ』
 いやらしく醜い笑い声を上げた。娘はそっと障子の向こうをうかがう。当分二人は部屋から出てくる事は無さそうだ。だがしかし、先ほどの会話に現れた“ろくろ首”。この先の階段を見張っているらしい。このままでは先へ進めないし、ここで黙っていれば近いうちにあの老婆達のご馳走となってしまうだろう。
 娘は息を殺し、障子戸の前を通り過ぎた。老婆二人は全く気付く様子も無い。廊下が左へ折れ曲がった地点までやってくると、恐る恐る廊下の先を覗く。一人の若い女が床に敷かれた座布団に座っており、暇を持て余している。その首は明らかに人間のものと比べて三倍は長く、時折さらに伸び縮みを繰り返す。こちらには気付いていないようだ。床には皿が置かれており、その上には少しだけかじった跡のある油揚げが乗っていた。
 油揚げ? 何故油揚げなんか……。娘は一度廊下の陰に身を潜める。記憶の中で老婆達の会話を思い返した。『あいつは意地が汚いじゃないか』『油のことかい?』と。もしかして彼女、ろくろ首の好物は油などなのだろうか。だがしかし、持っている松脂の玉はいくらろくろ首にしても食べられたものでは無さそうだし、単純に好物を渡されただけで道を開けてくれるとは思えなかった。どうすれば良いだろうか?
 娘は廊下を振り返り、突き当たりでぼんやり光る燈台の明かりを見つめた。そして素晴らしい案を思いつき慌てて廊下を引き返していく。障子の前を通り過ぎ、灯篭の前に立った。周囲をうかがってから燈台の火を吹き消した。その辺りが一瞬にして暗くなり、焼け残った油の生臭い煙が立ち込めた。
「……おや。なんだかいい匂いがしてきたよ」
 廊下の奥の方から女の高い声が聞こえる。すぐにしゅるしゅると奇妙な音が聞こえ、娘は急いで座敷へと戻り格子戸を閉めた。
 座敷の中から廊下へ耳を澄ませる。すぐに先ほどの奇妙な音はもうしなくなり、今度は何か水音のようなものがしている。何か舐めているようだ。やがて娘は意を決して格子戸をほんの少し開き、その向こうを覗く。
 娘はぎょっとした。廊下を端から端まで、細く白い首が伸びている。左を見るとそこには、燃え残った油を必死で舐める女の頭があった。
「まったく……あたしは油揚げなんかじゃ満足しないよ。早くニンゲンの油をよこしてもらいたいね……」
 ぶつぶつと文句を言いながら、灯篭の油を長い舌で舐め取る。決して気付かれないように。だがしかしできるだけ急いで、娘は廊下を進んでいった。突き当たりで折れ曲がると、そこには先ほど見たままの姿で座る女の体だけがあった。そっとその横をすり抜ける。ふと床を見ると、あのろくろ首が食べていた油揚げが皿にあった。そっと、それを拾い上げそのまま廊下の突き当たり、下へ続く階段を降りていく。食べてはいけないが、何かの役に立つかもしれない。ろくろ首がそれに気付く様子はまるで無かった。




〜三〜


 長い階段だった。降りていく下の方には踊り場が見える。すべて美しく白い木で造られた階段全体を提灯の明かりが黄色く照らしていた。娘は後ろを気にしながらもひたすら階段を降りていく。
 踊り場には床の間が設けられ、小さな地蔵と掛け軸があった。一瞬、妖怪か何かかと思ったがただの地蔵のようだ。娘は少し怯えながらも踊り場へ降り立った。
 踊り場を境に階段は逆方向へ折れ曲がり、更に下方へと伸びていく。ずいぶんとこの屋敷は大きいようだった。階段を更に降りていく。階段の先は暗闇に包まれて見えず、降りた先に何があるかは見えなかった。ゆっくりと様子を見ながら一段一段と足を踏み出していく。踊り場は既に遠ざかっていた。やがて、周囲は完全に暗くなってしまい、視界は閉ざされる。手探りでしばらく進んでいくと、行く手に明かりが見えた。
 更に続く下り階段。そして、下の方には踊り場が見えた。地蔵と、掛け軸。
 娘は驚いて階段を駆け下りていった。踊り場へ立つと、辺りを見回す。全く先ほど通った踊り場と同じだ。娘は慌てて階段を進んでいく。どんどん下がっていくとやはり周りは暗闇に包まれ、そしてその先に明かりが見えてくる。同じ踊り場、地蔵。掛け軸。
 意味が全く理解できず、娘は階段を引き返した。
 板間の廊下がそこにあり、ろくろ首が辺りを見回している。首を伸ばしては何かを探しているようだった。幸い、こちらに気付く前に娘は慌てて階段へ戻っていった。
 踊り場へ戻ると、娘は床に座り込んだ。ふと思いつき、握り飯を床に置くと、懐から巾着袋を取り出した。壁に掛かる提灯の中に松脂の玉を投げ込むと、提灯の炎は激しく燃え上がり付近一帯が明るくなる。後ろを振り返ると、長く伸びた自分の影は既に動き出していた。
「やあ、呼んでくれたね」
 少し嬉しそうな声を上げると、影は左右を見渡してから続けた。
「……ずっと階段が続くのかい? どうやら化かされてるみたいだね。ほら、そこに……いるだろ?」
 影小僧は床の間の方を指差した。
「やつはいたずら者だけど、好物には弱いんだ。きっと通してくれると思うよ」
 言い終わった直後に、松脂が燃え尽きて提灯の明かりはまた穏やかになる。影は力を失くし、いつもの自分の影へ戻っていった。
 床の間の前まで歩いていき、娘は床の間に立っている小さな地蔵を見つめる。触れてみると石特有の冷たさはさほど感じられなかった。次いで壁の掛け軸に目を移す。墨鮮やかに書かれた文字が並んでいた。
《……従い、我らに名は必要なく、なんなれば、我らは個を必要とする存在ではないからだ。仲間となりし者も其は同様である》
 さらに床の間を見ていくが、特に何も無いようだった。影小僧は何を言っていたのだろうか。どうも床の間が怪しい気がするが、落ち着いて影小僧の言葉を思い返す。『好物に弱い』。娘を化かしているものの好物とは一体何なのか。もう一度松脂の玉を使おうかとも思ったが、残りはたった二つ。もう無駄に使うことはできなかった。
 不意に床に置いてある握り飯と油揚げに目を向け、それぞれを手に取った。地蔵に供えてみれば良いかも知れない。だが、その前にとある変化が訪れた。
「こ、こ、コーンッ!」
 突然甲高い、犬か何かのような鳴き声が階段に響く。そして驚くべきことに、娘の目の前で地蔵はどろどろと溶け出し、見る見るうちに明るい茶の毛が生え、頭からは尖った耳が飛び出し尻尾までも生えてきた。床の間にいたのは、紛れも無い。一匹の狐だった。
「そいつはアブラゲ! ちょーだい、ちょーだい!」
 娘の元まで走り出し、手の油揚げに飛び掛る。娘は怯えて手を引っ込めるが、狐はその手をひたすら追って行った。
「ほらほら、もう意地悪しないから。先に行かせてあげるから。なあ、アブラゲくれよー」
 壁際まで追い詰められると、娘は怯えながらも狐に油揚げを放り出した。物凄い勢いでそれに食いつき、あっという間に平らげてしまう。舌なめずりをして今度は握り飯を見るが、それに興味は無いようですぐに下り階段の前まで歩いていった。娘もその後を追う。
「人間なんて食う奴の気がしれねーぜ。これが一番だよなぁ。……おっと、下にはこいつのおいしさが分からねえ奴がうろうろしてるから、油断するなよ、嬢ちゃん」
 鼻の先で階段の下方を指すと、みるみるうちにそこを覆っていた暗闇は晴れ、下の階の床が見えた。不思議そうにその一部始終を見ている娘をよそに、狐は再び床の間へ戻り、ぐにゃりとまた地蔵へ変化した。尻尾がまだ生えたままになっていたが、娘は気にせずに黙って階段を降りていった。




〜四〜


 ゆっくりと階段を降りていくと、そこは再び、左右に伸びる廊下のようだった。また幾度も階段をぐるぐると回る事になるのではないかと思っていたが、その様子を見て娘は安堵の溜め息を漏らした。
 そっと、首を伸ばして廊下の様子をうかがう。直進した廊下の向かいに大きな襖。すぐ左側の通路にはもう一つ襖があり、さらに奥へと屋敷が続いているようだった。右を見ると少し歩いていった所の突き当たりに“厠”と書かれた部屋がある。その横の壁には更に格子戸。廊下には合計四つの戸があった。ただし目の前の襖と格子戸の向こうからはしきりに何か物音が聞こえている。中に誰か居るようだった。それがもし妖怪ならば、開ける訳にはいかないだろう。
 娘は階段を降り切ると改めて廊下を見回してみた。ふと、厠の戸の前に袋が落ちている。麻でできた巾着袋に、その口を縛る赤い紐。まるで今自分が持っているものと変わり無かった。もしかして、松脂が入っているのかも知れない。既に松脂は残りが少なく、影小僧に会える機会はあと二回だけだった。娘は慌てて足を踏み出す。
 その時。良く見ると階段の陰には少し奥まった部分があるのに気付いた。そして、そこに座って目を閉じている坊主にも。
 頭髪は全て剃られ、袈裟も数珠も身につけている。娘も何度かその姿を見た事があったが、その坊主は明らかに普通の人間としてはおかしい部分があったのだ。顔の中心に、恐ろしく大きな眼がたった一つだけ。鼻は無く顔面には巨大な口と、それに負けぬほどの大きさをもった眼だけがあった。幸い今は目を閉じ眠っているだけだが、物音さえ立てれば起きてしまうかもしれない。今度こそ見つかれば食われてしまうだろう。娘はその姿を見て一度は身を引いたが、廊下に落ちているあの巾着袋を放って置く訳にはいかなかった。せめて、音を立てずに移動すれば。
 娘は意を決して廊下を歩き出した。そっと、絶対に音を立てぬように、床をすり足で歩いた。時々その動きを止め、安らかな寝息を立てている一つ目小僧の様子を探った。よほど通路の見張りが暇なのだろうか。よく眠っている。
 もう巾着袋は目と鼻の先にある。娘は必死に腕を伸ばし、しかし届かない。もう一歩分足を進め、袋の口を結んでいる紐の先端を掴んだ。だが、しかし、娘がその袋に手を触れた瞬間、廊下に響き渡るように大きい豪快な笑い声が響いた。
「やーい、ひっかかった、ひっかかった! 一つ目さーん、おっきろ、おきろ!!」
 目の前で巾着袋がまるで生き物のように飛び跳ねていた。袋の口からはまだ笑い声が発せられている。娘は反射的に手を引っ込め、驚いて後ろを振り返った。一つ目小僧の寝息は止まり、不機嫌そうに何だか解からない呻き声を漏らしていた。
「ほーら、あんた。早く逃げないと起きちゃうよ!!」
 娘は床の巾着袋を見つめたが、慌てて廊下を走り出す。本来は襖の向こうに逃げれば良いのだが、今そちらの方向へ向かえば確実に一つ目小僧に捕らえられてしまう。向かう先は、格子戸の部屋と厠しか無い。娘は物凄い速さで思考を巡らせたが、格子戸の部屋には何者かがいたはずだった。そうなれば……逃げ道は厠しか無い。一瞬躊躇したが、この場で食われてしまうよりは少しばかりの時間稼ぎになるかも知れない。どちらにせよ食われてしまうのなら既に意味など無いのかも知れないが。
 娘は一目散に厠へ向かって駆け出した。後ろから巾着袋の嘲笑うような声が聞こえる。
「おっと、そっちでいいのかい? 行き止まりだぜ!」


 娘は厠の戸を思い切り閉めた。真ん中に四角く穴を空けられた床と、小さな桶。身を隠す所など何処にも無かった。穴の中という選択肢は……さすがに思い当たらなかった。慌てて周りを何度も見回すが、やはり身を隠す場所など存在しない。恐怖に身体は震え、心臓は早鐘を打ち出した。
 厠の戸の向こうから、廊下での話し声が聞こえてくる。
『おい、笑い袋。急に笑い出してどうした』
『さーて、どうしたんだろね?』
『何か、今そこの便所に逃げ込んだような気がするが』
『さーてさてさて、確かめてみれば?』
 やがて廊下をずんずんと歩く重い足音が聞こえてきた。この瞬間娘は死を覚悟したが、その時突然厠の壁が光った。正確に言うと光っていたのは、壁に貼られた一枚の小さな御札。あまりに慌てていたのでその存在に気付いていなかった。そして、光る御札から老人の声が聞こえる。
「お主、困っておるな……隠してしんぜよう」
 御札の前の空中に、半透明の姿の老人が一人ふわふわと浮かんでいた。そして御札はより一際大きく光り輝くと、娘の身体を光で包み込んだ。ふと気付くと、自分の腕が、着ている着物までもが透き通って透明になっている。見ると老人の姿まで一緒に消えていた。そしてその時、背後で厠の戸が勢い良く開かれた。
 一つ目小僧はその大きな一つ目をぎょろりと動かし、厠の内部をじっと見詰めた。娘は厠の隅に縮こまっていたが、身が透明になったせいで、まるでそれに気付いていない。
「なんだ、笑い袋! ねずみ一匹おらんではないか!」
『そうだった? そりゃ残念!』
 一つ目小僧が怒ったような声を上げ、厠の戸を乱暴に閉めた。そして笑い袋の陽気な声も廊下の向こうから聞こえてくる。再びずんずんと床板を踏みしめる音。だが今度は段々と遠ざかっていく。それを確認したかのように再び御札が光り出した。見る見る間に娘の身体は元通りの色に戻り始めていた。娘はほっと息をつくと、厠の床に座り込んだ。再びあの老人の声が聞こえてくる。
『……少々臭いのは気にせんでくれ……ではな……』
 その御札には、“厠神”と書かれていた。


 恐る恐る厠の戸を開け出る。廊下にはまたしても一つ目小僧の寝息が聞こえていた。今はもう安全だろう。あの袋に触れない限り。娘はそっと廊下を進み始めた。まだ心臓はばくばくと鼓動している。ゆっくりと、少しずつ歩を進める。だがその時、またしてもあの笑い袋の声が聞こえた。だが今回は先ほどのような笑い声では無い。陽気な調子は変わらなかったが声の大きさは抑えているようだった。
「あのさあ、ちょっと俺っちを倉庫に戻してくれないか。そこら辺の奴らが面白がって俺っちを持ち出したあげく置いてっちまったんだよー」
 娘はゆっくりと振り返り、無言で床の笑い袋を睨み付けた。
「いやいや、さっきのはちょっとしたいたずら心! 水に流して、ね? それに、お礼もしてあげる。扉の向こうに誰かいるかどうか、持って歩けば調べてあげるよ」
 笑い袋は静かに飛び跳ねる度、ぱたぱたという音を立てていた。娘としては先ほどのような行いは頑として許せなかったが、協力してくれるのならば……連れて行ってやっても良いだろうか。少しだけ悩んだが、黙って笑い袋を掴み取る。
「そうかい、ありがたい!」
 娘が拾い上げて懐に入れようとした瞬間、またもや大きな笑い声を上げた。驚き体を痙攣させて恐る恐る後ろを振り返るが、一つ目小僧、今度は起きてくる様子は無かった。
「……おっと、もう笑わないよ」
 懐の中から済まなさそうに、だがしかし全くと言って良いほど反省の色が見られない陽気な声がした。




〜五〜


 一階の廊下の襖を開け、娘は驚いた。
 目の前には左方向へ二箇所、分岐する道がついたとてつもなく長い廊下が続き、その向こうには緑生い茂る庭園が見える。屋根が切り取られ、屋敷の外の庭が見られるようになっていた。ただし庭は屋敷ごと高い塀に囲まれ、到底出られそうに無い。娘は廊下の広さに驚愕しながらも、長い廊下の先に見える外の景色へ向かっていった。
「気をつけろ、気をつけろ。見張りがうろうろしてるから」
 突然、懐から笑い声が聞こえる。娘は慌てて足を止めた。見ると、廊下の分岐する道、左側の廊下から足音が聞こえてくる。こちらへやって来るのかと思ったが、近づいてくるとそのまま方向転換し、どこかへ歩いていってしまった。娘はそっと分かれ道の廊下を覗いてみた。
 小さな子鬼のようなものが、廊下をきょろきょろと見回しながら、廊下を往復している。また振り向いてこちらへ歩き出そうとしたので、慌てて首を引っ込めた。
 このまま廊下を進んでも庭園があるだけで行き止まりだし、庭園は塀に囲まれており出られない。廊下を曲がろうにもこの道を曲がるのは無理だ。ふと、後ろを振り返ってみると、長い廊下に分かれ道がもう一つだけある。娘は静かに廊下を引き返して行った。
 廊下をそっと覗き、様子を窺う。廊下はさらに長く続き、突き当たりで右に折れていた。そしてその突き当たりの床に、何か毛むくじゃらの物体が転がっている。娘は少しずつ廊下を前進していった。
「おっと、よーく前を見なよ。このまま進むつもりかい?」
 またしても笑い袋が声を上げる。ふと、廊下の先に居る毛玉のようなものがぴくっと動いた。
「あの猫、大きさはあんたと同じくらいあるんだよ。今は寝てるけど起こせばあっという間に食われちまうぜ」
 娘はよくよく目を凝らしてその毛玉を見つめた。成る程、猫が丸まって寝ているのだ。幸い、寝ているためこちらに気付いては居ないが、猫を起こさずにその横を通過するのはさすがに危険過ぎた。では、どうすれば良いだろう。
 このまま戻るしか無いだろうか。そういえば、先ほど笑い袋を拾った廊下では、まだ開けていない戸が二つあった。だが……確かあの部屋の中からは物音が聞こえていたはず。何者かが居るのかも知れない……。だが、行ってみる価値はあった。今は笑い袋が居るため安全の確認もできる。あの一つ目小僧が起き出したりしなければ良いのだが。
 娘はしばし足を止めて考え込んだ。ふと、後ろの廊下を誰かが歩いていく足音が聞こえる。気付かれないように身を隠し振り返ると、襖を開けて食膳を持った老婆が廊下へ出てきた。娘はその様子をじっと見ていたが、気付く様子も無くそのまま何処かの部屋へ入っていった。あの老婆、確か自分を此処へ連れて来た……。料理など持って何処へ行くのだろうか。老婆が歩いていったあとを見つめながらも、娘は襖を開け、階段へ続く廊下へ戻っていった。


 一つ目小僧はまだ寝ている。娘は格子戸の前に立って、笑い袋を取り出した。階段の目の前の大きな襖の部屋は、聞かなくても分かる。
「はいはい、調べますよー。化け物いるかいないか調べますよー」
 どうにも緊迫感の無い声が響いてくる。だがさすがに大笑いはしなかった。少し間が空き、再び笑い袋が喋り出す。
「たぶん、この向こうには誰もいないよ。……たぶんね」
 余計に不安を煽る答えだったが、耳を澄ましてみると格子戸の向こうからはもう何の音も聞こえない。どうやら、今はとりあえず誰も居ないようだ。娘は意を決して、格子戸を開けた。
 意外なことに、そこには土間があった。台所だ。かまどに、漬物でも漬けているのかいくつかの大きな壺もある。包丁や食器など全て豪華なものが取り揃えられていた。かまどの中にはまだ火が燃えている。何処からか吹く風に炎がゆらゆらと揺れていた。まるでかまどの奥から吹いてくるような不気味な風だった。
 見ると、台所の奥にもうひとつ戸があった。この台所には、特に役立ちそうなものは無さそうだ。娘は戸を開けようとしたが、思い立って笑い袋を取り出す。
「………………………………」
 娘は不思議そうに笑い袋を見つめる。
「あ、いませんよ?」
 溜め息をつくと、娘は戸を開けて台所を出て行った。


 再び、庭園だった。いや、ただの裏庭と言った方が正しいのかも知るれないが。そこは屋敷の外で、塀に囲まれているものの頭上には青い空が見えていた。母と山道を歩いていた頃は日が沈んだ直後のはずだったが……、どれほどの時間が経っているのだろうか。
 裏庭には、小さな井戸があった。だが釣瓶は取り付けられておらず、水を汲むことはできなかった。多分綱が切れてしまったりでもしたのだろう。先ほどの台所にあった枡と綱を組み合わせれば即席のものは作れたかも知れないが。
 ふと、娘は幽かに何かの歌声を聞いた。何処からか流れてくる、屋敷の中では無い。井戸の底から? そう思って覗いてみるが違った。何処から聞こえてくるのだろう。娘はうろうろと裏庭を彷徨った。そうだ、庭の、植えられた木の辺りから。娘はしゃがんで地面を見渡した。
 良く見ると、庭の隅の松の木の根元に子供一人は入れそうな穴が開いていた。そしてなんと、その穴の中から歌声が聞こえてくるのだ。娘は恐る恐る覗いてみる。
『……りん、すっとんとん ……ころりん、すっとんとーん』
 一体何なのだろう、と思っているといきなり笑い袋が声を上げた。
「匂うね、匂うね! 獣くさいのがぷんぷんするよ!」
 もう一度歌声を良く聴こうと身を乗り出すと、懐から、笹に包まれた握り飯が滑り落ちた。そしてそれは地面に開いた穴の暗闇に吸い込まれていく。娘は手を伸ばしたがもう遅かった。穴の底へ何かが落ちるような音がすると、一瞬歌声は止むが、今度はさらに声が大きくなった。
『おむすびころりん、すっとんとん おむすびころりん、すっとんとーん』
 娘は更に耳を澄ましてその声を聞いていた。声の主はどうやら、娘が落とした握り飯に気付いたらしい。もう少しだけ身を乗り出すと、突然手をついていた穴の周囲の土が少し崩れ、娘は頭から穴の中へ落ちていってしまった。


「おむすびころりん、すっとんとん おむすびころりん、すっとんとーん」
 鼠たちは、その頃突如として降って来た握り飯に歓喜の歌声を上げていた。ふとそこへ突然、歌う声が響く洞穴の中に一人の娘が降って来た。
「……ってうわ!」
「何だ、よく見れば人間の子供じゃないか!」
 娘はすぐに起き上がって顔を上げる。周囲には自分の顔ほどもある大きな鼠が三匹。不思議そうに娘を見ていた。やがて娘を洞穴の奥へ行くように促し、そのまま鼠と共に歩いていくと、目の前には小さな座布団と、そこに座る年老いた鼠が居た。
 周りの鼠の話によると、この老鼠はここの長老らしい。見るところ娘を食う気は全く無いようで、長老以外の鼠はみんな握り飯の方へ集まっていた。娘は長老に促されるまま座布団に腰を下ろし、経緯を話した。
「……なるほど、この屋敷から出たいのか」
 鼠が人語を話すのは初めて聞いたが、やけにしわがれた声だと娘は聞きながら思っていた。
「でもなあ、ここはいい場所よ。何はともあれ、食べるものはたくさんあるでな。外の世界はそりゃひどい。わしらも以前は寝ている人間の赤子の……ああいやいや」
 ぶるぶると首を振って、そのまま長老鼠は話を続ける。背後の方では、鼠達が握り飯の配分について話し合っているようだった。肉類は食べないのかも知れないが……本当のところどうなのかは分からない。
「ともかく、出たいのなら止めやせんし、わしらに出来ることがあったら、協力してもよい。おにぎりのお礼だでな。屋敷の中はよく知っとるが、鼠穴はお前さんには小さすぎる。わしら鼠ならどこへでも行き来できるぞ」
 娘は嬉しそうに頷いた。だがしかし長老は渋い顔をする。
「しかしここから万一外に出ても、追っかけてくる奴らを何とかしんと逃げ切れんぞ」
 そう言うと、長老は座布団の上に座り直して娘の背後に目を向けた。見ると鼠の一匹が米粒の固まりを持ってやって来る。握り飯のかけらのようだった。鼠は娘の視線に気が付くと、自ずから話し始めた。
「オレの任務は上から食料を調達することさ。危険な任務だが、オレは危険を愛しているからな」
 長老が娘に目を向ける。
「この娘さんは、妖猫に道を塞がれて困っているそうじゃぞ。助けてやりなさい」
「何だって、猫が道を塞いでるのか。……あいつとやり合うのは久しぶりだな。ふーう、腕が鳴るぜ」
 娘が向き直って立ち上がる頃には、既に鼠は洞穴の出口まで走っていた。
「よーし、俺についてきな! 神速の足を見せてやるからな!」
 急な坂のようになった洞穴の出口を、鼠は物凄い速さで登っていく。娘はその後に続いて、洞穴を後にした。


「さあ、そこでじっくり見ていろよ!」
 廊下へ辿り着き、娘を少し後ろへ下げさせると鼠は意気揚々と、眠る妖猫の前へ躍り出た。その周りをちょろちょろと走り回り、そうしているうちに猫はふと目を覚ました。
「ネ、ネズミの匂いがするニャ!」
 妖猫は必死に鼠を追う。手で捕まえようとするがあまりに素早い動きで鼠はその攻撃を掻い潜っていった。娘が呆気に取られている中、鼠は右に折れた廊下の先へ走り出す。
「待つニャーっ!!」
 それを追って猫と鼠は娘の前から消えていった。しばらくしてから何処からかどたばたと争う音がする。やがて一瞬、間が空いてから近くの壁に空いた小さな穴より鼠が這い出てきた。
「どうだい、オレの足は。ざっとこんなもんだぜ!」
 勝ち誇った様子で、鼠は再び物凄い勢いのまま廊下を後にした。




〜六〜


 妖猫が寝ていた廊下を曲がると、左右の壁にそれぞれ扉と襖があった。右の襖の向こうからは、しきりに何やら騒いでいる声がする。開けようものならすぐに捕まり食われてしまうだろう。娘は左側の、小さな扉へ向かった。
 木の戸に鉄枠をはめた小さな扉。内部から物音は聞こえないようだ。念のために笑い袋を取り出す。
「うわぁーっ!! この向こうには強大な化け物が……!
」  娘は驚いて手の中の袋を見つめる。
「いないね」
 そう言うと大きな声を上げて笑い出した。無理矢理に懐へ突っ込むと、娘はゆっくりと扉を開いた。
 扉の内部は、少し埃っぽい小さな蔵で、大小様々な壺や葛篭が置かれている。壁際には色々な小物が置かれた棚も幾つかあった。
「おっと、そうそう、ここ、ここ。さあ俺様をさっさと棚に戻してくれよ」
 懐の中で声が聞こえる。元はと言えばそのような約束だった。部屋の向こうの安全確認ができなくなることになるが、それも仕様が無い。今度また大声を上げて周囲の妖怪共を呼び寄せられたりしては困る。娘は近くの棚の前に立ち、真中の段へ笑い袋をそっと置いた。ぱたぱたと飛び跳ねながら笑い袋は話し出す。
「よおし、約束守った良い子には褒美をやろう。そこにかかってる鬼の面、貸してやるよ。少しの間なら、奴らをごまかせるかもね」
 娘は周囲を見回した。良く見ると倉庫の壁には、小さな青鬼の面が飾ってあった。大きさとしては、娘が被るのに丁度良い。鬼の面を手にすると、娘はそっと倉庫を後にした。
「俺様しばらくお休みさ。もう起こしてくれるなよ」
 背後から陽気な笑い声がする。文字通り、懐が寂しくなったような気がした。


 倉庫の扉を閉めると、娘は覚束無い手つきで顔に面を付けた。鋭く細く掘られた覗き穴で幾分視界は狭いが、笑い袋の言った通りに、少しならば妖怪の目を逃れられるかも知れない。娘は再びゆっくりと廊下を進んでいく。いくら鬼の面があるとはいえ、右側にある襖の部屋には声から判断して最低でも四、五体の妖怪が居るだろう。態々その中に飛び込んでいくという危険を冒す必要は無い。
 しばらく進んでいくと、再び廊下が左右に分岐しており、十字路となっていた。右方向には、少し前に見たあの、見張りの子鬼が居る。一瞬こちらを見たが、全く気にしていないようだった。どうやら娘を本当に青鬼だと思っているらしい。左へ続く廊下は、すぐに格子戸で閉ざされていた。先がどうなっているかは良く見えない。娘は子鬼が目を離した隙に格子戸へかじり付くが、びくともしない。鍵が掛けられていると言うよりは、戸が何かの力によって固められているようにも感じた。どんなに力を入れても動くことは無い。娘は諦めて廊下を直進し庭園の方へ向かっていった。
 庭園へ長く突き出た廊下の壁には、一つだけ襖がある。右側には庭園へ下りられる短い階段。庭園には美しい幾つもの花が咲き誇り、良く手入れされた樹木が茂っていた。小さな池と、時折その音を響かせている獅子威しまである。娘は廊下を直進していき、とりあえず襖の向こうを探る。何も音はしないようだった。それに、今は鬼の面を顔に付けている。多少の事があっても正体はばれないだろう。娘は静かに、襖を開いていった。
 部屋は、その広さ二十四畳敷き畳。かなり広い部屋だったが、置かれている家具は小さな机と箪笥に、行灯。至って普通の家屋の内装だった。だがしかし、置かれているものはその全てが豪華。部屋にある屏風には金箔まで貼られていた。
 娘ははっと息を飲む。目の前の座布団に、丸々と太った老人が座っていたのだ。慌てて戻ろうとするが、その前に老人はこちらへ顔を向け、口を開いた。
「なんじゃい、お前は。ああそうか、ちょうど良いところに。おい、ななしたろうや、喉が渇いた。水を一杯所望するぞ」
 娘は訳が解からない様子で首を傾げる。老人の顔には何故か常に笑みが浮かんでいた。
「何をしとる。早く水をよこしてくれ」
 咄嗟に、娘は頷いてしまった。自分をどうやら召使いか何かと勘違いしているようだ。よくよく見ると机の上に置かれた和紙には、流れる書体で《御用の際は下男共にお申し付け下さい》と書き付けられてあった。老人に促されるまま部屋を後にする。とりあえず、娘は、台所へ向かうことにした。


 娘は台所に置かれた物を眺めていた。水を汲もうにも、裏庭の井戸の釣瓶は切れ落ちていた。そう、必要なものは水を入れられる容器と、それを吊るす縄。台所には、枡や手桶があった。大根を干している途中の縄もある。娘は手桶の持ち手へしっかりと結びつける。何度か引っ張っても解けたりしないようきつく縛りつけ、娘はそれを手に裏口を出ていった。
 井戸の前に立つと、離してしまわないようしっかりと両手に縄を巻きつけた。そのまま手桶を投げ入れると、やがて水音と、底の水面が揺らめく。手桶に水が汲まれたのを確認すると、体重をかけて縄を引き戻し始める。即席の釣瓶に汲まれた水は予想以上に重く、縄が手に食い込む。なんとか上まで引っ張り上げると、ふと手桶の水の中に何かが光っているのを見つけた。手を入れて取り出す。
 それは、櫛だった。蒔絵が描かれた美しい櫛だったが、何より、何故井戸の底にあったのに腐ってしまわないのだろう。落ちてからそれなりの時間は経っていると思われるのだが、それはむしろ美しく淡い光を帯びているようにも見えた。とりあえず娘はそれを懐へ入れると、手桶を持ち台所へ戻る。汲んだ水を枡へ移すと今度はそれを持ち、先ほどの老人が居る客間まで向かう。
 水をこぼさぬようにゆっくりと戸を叩いた。向こうから返事が聞こえると娘は襖を開け、部屋の中へ入る。老人がたっぷりと肉のついた頬を緩ませたまま手招きをした。
「おお、水を持ってきたな。ご苦労だったな、ななしたろう」
 ななしたろう? 誰の事だろう、と娘は思ったが、ふと気付けば、自分は今下男なのだ。下男には名前が与えられていないのだろうか。名無し太郎とは良く言ったものだ……。
 娘が押し黙っていると、老人は水を一口音を立ててすするとこちらへ顔を向けた。
「……ん? 何を物欲しげな顔をしとる。何もやらんぞ、ずうずうしい」




〜七〜


 娘は、顔に鬼の面をつけたまま、屋敷内部を歩き回っていた。服装はともかく、顔の見た目からして見張りなどに疑われる事も無く、以前に比べてかなり行動できる範囲は広まっていた。娘は廊下を一通り歩いて回るも、これ以上入れる場所は無さそうだった。
 庭園に下りてみるも、収穫は何も無い。地面に小さな穴が空いているのを見つけたが、とても入れる広さではない。しかし、幅一寸ほどの穴は、思ったより深くまで掘られているようだった。娘はふと思いついて、地面の穴の底を、持っていた木の棒で突き刺してみた。中々深い。やがて、穴の底へ棒の先端が触れた時には木の棒の半分以上が地面に埋まってしまっていた。すると、娘は驚いた。棒が穴から抜けない。そしてさらに、地上へ出た棒の先端が、見る見るうちに二つに分かれ、その枝がさらに幾つにも分かれていく。棒はまるで一本の木のように成長を始め、やがて葉が生い茂った。細い枝の根元には何かのこぶが生まれ、それは段々と肥えて膨らんでいく。薄い産毛が表面に生えた球。
 娘は今や一つの果実をつけた木となった棒を見つめた。やがてその実は重くなり枝をしならせ、自然と地面へ落ちる。娘は慌ててそれを拾い上げた。大きな桃だ。良く熟し、芳醇な香りが漂う。だが食べてしまってはいけない。それに、何故かこの桃は、薄く発光しているようだった。果実から発せられる命の波動のようなものが、ひしひしと感じられる。娘はそれを大事そうに懐へ入れると、庭園を去って行った。
 廊下を進んで行き、あの太った老人客の部屋の向かい側にもう一つ戸を見つけたが、ここも何故か固く閉ざされていて全く開きそうに無い。廊下中央の巨大な部屋からは未だに大騒ぎしている声が響き、いくら何でも入るのは危険すぎた。
 完全に詰まってしまった……。娘は廊下に立ったまま頭を悩ませる。一体どうすれば良いだろう? このまま危険を冒して中央の大部屋へ入るか、一つ目小僧がいた廊下の襖の部屋へ行くか。青鬼の面があるとは言え、どちらも妖怪の数は最低でも四、五匹は居るだろう。だがしかし、この二部屋以外──開けられない戸二つを除く──は全て見て回ってしまった。仕様が無い。覚悟を決めて、どちらかの部屋へ入ろう。と、すればできるだけ安全な方の部屋は……一つ目小僧の廊下の部屋か。ここの廊下の中央部屋からは人語だけでなく何かの獣が唸るような咆哮まで聞こえてくる。きっと内部は地獄絵図式のようになっている……。娘は廊下を後にした。しっかりと顔に面を付け直す。


 娘は襖の前で立ち止まり、ゆっくりと二回、襖を叩いた。いくら下男でも部屋にいきなり押し入る訳には行くまい。部屋の中は騒がしかったが、その中から一人の声が聞こえる。
『おいおい、誰だぁ?』
 一瞬戸惑うも、娘は落ち着いて答える。できるだけ声を低くして、できるだけ慇懃に。ななしたろう、と。
『よおし、入りな』
 驚くほど簡単に襖が開かれた。見るとそこには恐ろしく大きな、黄色い肌の鬼が立っていた。
「ん? 何でえ、ちびっこいな。新入りか?」
「よく来たな、新入り! よーし、そこの空いてるとこに座りな!」
 娘が答える間も無く、部屋の中に座っていた青鬼が声を上げる。娘が付けている面の鬼とは全く違う。これはどちらかと言えば子鬼の面のようだ。鬼達に促されるまま、娘は部屋の中へ通され、畳の上に広げられた赤布の一角に座った。緑鬼が話し出す。
「……さーて、新入り、もちろん丁半のやり方は知ってるよな?」
 首を左右に振った。部屋の戸が黄鬼によって閉められ、とうとう逃げることができなくなってしまった。成り行き上“丁半”というものに参加せざるを得ないようだ。
「へえ、そうかい……じゃあ説明してやろうか。なーに、要は簡単よ。このさいころを二つ振って、足した数がだな、偶数だったら丁、奇数だったら半といった具合。どちらが出るか当てるだけさ」
 赤布の上には、くしゃくしゃになった紙幣と、幾つもの徳利が散乱していた。ここは賭場のようだ……。
「で、もちろん種銭は持ってるだろうな?」
 赤鬼が娘の顔を覗き込むようにして聞いた。酒に酔って少し虚ろな目が見つめる。娘はほんの少し考えてから、左右に首を振る。桃や櫛が種銭の代わりになるとは思えない。
「おいおい、しけてんな。まあ金がないってんなら仕方ねえ。……うーん、しかしそうだな、初めてだしな」
「新入り歓迎ってことで、やらせてやったらどうだ?」
 赤鬼の言葉に同調するように、青鬼が深く頷いた。
「そうだな、ながーい付き合いになるだろうしな」
「よし、じゃあ、新入り、こうしよう。これから試しに五回勝負だ。お前が勝ったら、種銭をいくらかやる。で、お前が負けたら……そうだな……簡単なお使いでもしてもらおうか。何、本当に簡単だから、お前でもできる」
 娘は必死に頷いていた。鬼達の口調はあくまで優しいが、強面の顔が四つも目の前に並んでいては選択肢など存在し得ない。今は事態の流れに身を任せるしか無いようだ。
「よし、じゃあ、始めるとすっか。よーし、振るぞ」
 赤鬼が枡のような器にさいころ二つを放り込み、枡の中で転がす。
「おらおーら、張った張ったい! 丁か半か、丁か半かの一発勝負ー!!」
 威勢の良い掛け声に娘が一瞬体をびくつかせるも、辛うじて半、と口に出す。枡から赤い布の上にさいころが放たれた。少し布の上を転がって止まる。赤い大きな点一つと、黒い点が四つ。足して五。奇数だ。
「すごいぞ、お前、当たったな!」
 周囲の鬼から歓声が上がる。娘はおどおどと頭を下げた。だが間も無くして、次の勝負が開始される。今度は丁を予想した。赤鬼は器用に枡の中でさいころを転がしている。からからという音が響き、賭場は一時の沈黙に包まれた。やがてさいころが放たれる。黒い点が、五つと六つ。娘の外れだった。
 鬼はその度に笑い声や歓声を上げたりしている。三回目は丁を選んで、結果は一と二、外れ。四回目には半を指定して六と六だった。ここまでで五回中当たり外れ共に二回ずつ。五回勝負最後の一回で、結果が決められる。
 娘は少し時間をかけて悩んだが、結局直感に従い半を選択する。周りで見ている鬼はにやにやと笑みを浮かべ、赤鬼の手捌きをじっと見ていた。さいころが転がる。娘は息を飲んでその様子を見つめていた。
 動きを止めたさいころの目は、一と三。足して四。結果は丁だった。
「あっはっは、まあそんなもんだ!」
 黄鬼が大声を上げて笑った。青鬼が指を折って幾つか数を計算すると、やがて顔を上げた。
「これで五回、終了だな。お前の結果は……うーん、残念ながら、五回中二回の勝ちだから、お前の負けだ」
「さて……約束は約束だからな。ちょっとしたお使いをしてもらおうか。なあに、たいしたことない。俺ら、さっきから酒を切らしていてな。ちょっくら持ってきてほしいのよ」
 赤鬼は畳の上に転がった徳利や猪口を指差した。現時点でかなりの量を飲み干しているようだが、それでも足りないらしい。
「いやいや、もちろん種銭もない新入りに、買ってこいとも、ましてや盗んでこいとも言わねーよ。こいつを貸してやるからな、大部屋の座敷にちょいと忍び込みご相伴に預かりな。そいつを羽織って酒を飲みゃ、お前の代わりにその衣が酒を吸い込むって按配よ。どうだい、簡単だろう?」
 赤鬼が部屋の隅に投げ出してあった何かを、掴む動作をする。そのまま娘の前に差し出した。だが、その真っ赤な手には何も掴まれていない。不思議に思いながら腕を伸ばすと、手に何かが触れた。これがその衣だろうか。まさか無色透明とは……。娘は厠神の事をふと思い出していた。酒吸いの衣を受け取ると、娘は立ち上がり賭場の戸を開けた。背後から緑鬼の声が聞こえる。
「じゃあ、くれぐれも早くしろよ。頼んだぜ」
 賭場の襖が閉められると、再び襖の向こうからは笑い声やら何やらで騒がしくなった。だがしかし、娘は絶望していた。あの大部屋に忍び込み酒を盗み出せとは……。大丈夫なのだろうか。しばらくその場を動く勇気が無かったが、賭場の鬼達四匹にもこの面は見破られなかったのだ。もしかしたら、大丈夫かもしれない。多分大部屋の妖怪達もたらふく酒を飲んで酩酊しているはずだろう。娘は透明な衣を苦労して羽織ると、隣の廊下へ出て行った。長い廊下を歩き、相も変わらず騒がしい大部屋の襖の前に立つ。呼吸を整えると、襖を二度叩く。少し待つが、返事は聞こえてこなかった。あまりの大騒ぎで音が聞こえないのだろうか。もう一度叩いてみるが全く返答は無い。娘は思い切って、大部屋の襖を開けた。
 座敷は板間の床で、とても広い。今まで見てきた部屋のどれよりも大きく、壁に沿って一周するのだって時間が掛かりそうだ。部屋の中央には三つの丸い座布団に食膳。それぞれ恐ろしく巨大な蜘蛛に、牛と鬼が混ざったような恐ろしい姿の妖怪、琵琶のような楽器を抱えた僧侶のようだが下半身が蛇の弁天……どれも娘に友好的では無さそうだった。娘が大部屋の入口で唖然としていると、酔っ払い大騒ぎする中、巨大女郎蜘蛛がこちらに気付いた。
「オ、シンイリカ。ヨシ、コッチヘコイ」
 八本ある細長い腕を器用に使って手招きする。娘は恐れながらも、ゆっくりと蜘蛛へ近づいていった。牛鬼と、弁天は全く気付いていないようだ。
「サアノメ。ムカイザケダ」
 娘の腕を取り自分の方へ引き寄せ、さらに二本の腕で巨大な杯を、残る腕でそれに酒を注いだ。物凄い酒の臭気が立ち込める。こんなもの飲んでしまえばすぐに倒れ込んでしまうだろう。だが、飲んだ酒は今着ている衣が全て吸い取ってくれるらしい……。
「エンリョセズニノメノメ。サア、ノメノメ」
 意を決して娘は杯に口を付けた。滑らかな漆器の質感が唇に伝わる。少しぬるい液体を飲み込むと、たった今飲み込んだ酒が喉を流れていくうちにふっと消えてしまう。奇妙な感覚だったが、酒は娘の体内に入る前に衣へ吸い込まれていった。思い切って娘は杯の酒を全て飲み干した。女郎蜘蛛は少し驚いたような反応を示したが、すぐにまた酒を引き寄せて杯へ注いでいった。
「ノメノメノメ」
 今度は迷わずに杯を口へ運ぶ。巨大な杯いっぱいに酒を注いだので、かなり重いが、なんとか持ち上げて飲み干す。心なしか衣が酒を含み重くなってきているようだった。今ので二升は飲んでいる。空になった杯を女郎蜘蛛へ返す。
「……オ、オマエ、チイサイノニツヨイナ」
 女郎蜘蛛の思惑は外れ、この子鬼は全く酔いが回る気配が無い。しぶしぶと杯を床へ置き、懐から一枚の長方形の紙切れを取り出した。
「ヨ、ヨシ、コレヲヤルカラ、モウイッテイイゾ」
 娘は黙って頷くと、大部屋を後にした。酒吸いの衣は既にのしかかるように重い。
 大部屋を出ると衣を脱いで脇に抱えた。たっぷりと酒を吸っているようだ。そのまま先ほどの賭場へ向かい、襖を叩く。すぐに黄鬼が顔を出した。
「おお、ようしようし、行ってきたな。さあ、よこせ!」
 娘の手から奪い取るようにして受け取ると、それを赤鬼へ渡した。赤鬼はそれを嬉しそうに受け取ると、衣を逆さにするような動作をした。透明なので良く分からないが、袖口か何処かから酒がなみなみと猪口へ注がれていく。
「ご苦労だったな、もういいぞ」
 黄鬼はそれだけ言うと、娘を閉め出した。娘は襖の前に呆然と立ちすくむ。賭場からは酒を手に入れてさらに大声で笑う鬼達の声が響いていた。娘は、ふと懐に入れていたあの紙切れを思い出す。女郎蜘蛛から受け取ったあの紙……。そこには、墨で鮮やかに《招待状》と書かれていた。




〜八〜


 招待状……何の招待状だろうか。と娘は襖を開けて廊下へ出て行った。あの大部屋で行われている宴会の招待かと思われたが、そんなもの今さら貰ったとて何の使い道も無い。女郎蜘蛛が娘を追い払うために無理矢理渡したとも考えられなくは無いが。娘は思い悩んだ。今まで入る事をためらっていた二部屋にも遂に侵入したが、何の収穫も無い。有るとすればこの招待状のみだ。やはり、固く封印されていた二つの戸をどうにかしてこじ開けなければ何も進まなさそうだ。だがしかし……どうやってあの扉を開けば良いのだろう。どんなに力を込めたとしてびくともしない戸だ。今さら開けられるのならとっくに開けられているのだが。とにかく、何とかして脱出方法を探さなければ……。
 娘は、全く開かない格子戸の前へ行き、じっとそれを見つめた。細い木を組んで造られたものだが、どうにも恐ろしい強度だ。ちょっとやそっとの事では──賭場の鬼達が束になって体当たりしたとしても──壊す事も出来ないだろう。そっと、格子の隙間に手を入れ、再び全身の力を込め戸を動かそうとした。だが結果は変わらず、もしや狐が見せた無限階段の妖術のように、理解し難い不思議な力によってこの場に縛り付けられているよう。力尽き、格子戸から手を離すと、ふと娘は懐の中で何かが光っているのを感じた。桃かと思ったが、それではない。あの招待状だ。
 一つ目小僧から逃れる時に見たあの厠神の御札のように、一枚の紙が焼けた炭のように赤く光っている。娘はそれを不思議そうに眺めた。招待状の光は生物の鼓動のように強弱を繰り返し、やがてゆっくりとその輝きを失ってただの紙切れへ戻る。その瞬間、目の前の格子戸が、がたりと音を立てて揺れた。誰も何も触れていない。風が吹いた訳でも無さそうだし、この封印された戸ならば台風でも揺れる事は無いだろう。娘は格子戸の向こうを気にしながらも、その戸に手を触れた。
 すると、今まであれほどびくともしなかった格子戸が、いとも簡単に開いてしまったのだ。ほんの少し力を入れただけで音も立てずすっと戸が開く。娘は驚愕しつつも格子戸の向こうの部屋を見渡した。そこは少し広い板間の床が敷かれた部屋で、壁に掛けられた提灯以外は何も存在しない。部屋の向かい側には檜で作られたすのこが置かれ、下駄や草履が置かれたその先は石畳。まるで玄関そのものだった。そして……その向こうには外が見える。正確に言えば景色というものは見えなかったが、暗闇に包まれた外の世界、その遥か遠くに小さな小さな橙色の光が幻のように灯っている。娘は思わず走り出した。
 鬼の面を取って、改めて良く見てみる。そうだ、紛れも無く、ここはこの屋敷の出口だ。そのまま外へ飛び出そうとしたが思い立って引き返し、壁に掛けられた提灯の中へ、松脂の玉を投げ入れる。音を立てて炎が上がり、娘の影が長く濃くなっていった。
「やあ……やっと呼んでくれたね」
 影の真黒な顔に表情は存在しなかったが、やはりどこか嬉しそうな口調だった。
「ようやく、この屋敷から抜け出せそうだね。行くんなら、気をつけて行くんだよ……。でも、何だか引っかかってることがあるんだ……」
 引っ掛かっている事? 娘は影小僧の予想外の言葉に首を傾げた。一体何だろう。鼠の長老が言っていた、追手の事だろうか。確かに追手に対抗する手段は今のところ無く、鬼の面などでは今度こそ身を隠せそうに無い。下男と間違われているとは言え、屋敷から何者かが出て行ったのならば妖怪達は不審に思うだろう。娘は緊張しながら影小僧の言葉を待っていた。そして、影小僧は口を開く。いつになく神妙な声で。
「君……名前は、なんて言うんだい?」
 娘ははっと驚いた。今まで考えもしなかった。
 自分の名前が……思い出せない。どうしてだかすっかり頭から抜け落ちてしまっている。娘は呆気に取られていた。影小僧はさらに話を続ける。
「自分の名前、思い出せないんだね? ……この屋敷に連れて来られた子供たちは、みんな名前を取られるんだ。君は、君の名前を取り戻さなきゃ、ここから出られないよ。この屋敷に取り込まれてるんだ」
 娘は必死に話を聞きながら、絶望に襲われていた。まだ、終わりではないのだ。何故今まで気付かなかったのだろう。そうしているうちに、段々と提灯の炎は松脂を焼き尽くし、弱まり始めていた。
「……あと、玉は一個だね? おいらが助けてあげられるのはあと一回だ。気をつけて……でも、大丈夫、君なら」
 言い終わるか終わらないかの瞬間に、提灯の灯りは元の大きさへ戻り、影小僧は力を失いただの影となった。
 娘は少しの間その場に立ち尽くしていたが、やがて玄関の床に置いておいた鬼の面を拾い上げる。ふと屋敷の外が気になって外を覗こうとした。しかし、手に何かが触れる。だが見えない。見えない壁のようなもので、屋敷の出口が封鎖されているのだ。ようやくそれで決心が決まったような気もした。娘は、再び鬼の面を顔に付けると、その部屋を後にした。


 向かう場所は……とりあえず一つ思い当たった。あと一つ、びくともしない戸がある。娘は庭園を横切る廊下を渡り──見張りの子鬼はすっかり娘を下男だと思って全く気にしない──通路を左へ曲がった。
 戸に手を掛けるも、やはり全く開く気配は無い。懐からあの招待状を取り出して見てみる。それは既に淡く光を帯び始めていた。光は煌々と紅に輝き、何かの力に呼応するかのようにたゆとう。少しして、先ほどと同じくして戸が何かの音を立てる。娘が戸を開けようとした瞬間、手に持っていた招待状はまるで燃え尽きた炭のように粉々に崩れ落ちた。娘はそっと戸に触れる。戸は、ゆっくりと静かに開いていった。
 その部屋は、大体玄関と同じほどの大きさで、床は磨き上げられた美しい白木の板。桐の棚や箪笥に金箔が張られた屏風など、いくつも所蔵された巻物や美しい筆と硯も含めこの屋敷の中で、一番豪華な内装の部屋だった。もしや、この屋敷の主の部屋なのだろうか……。そういえば、主は何処へ居るのだろう。全くそれらしき姿を見かけなかったが……。
 娘は恐る恐る部屋の中へ入って行き、自分の名に関する何かが無いかと探し始めた。箪笥の引き出しはこの部屋の戸のように全く動かない。招待状が無くなってしまったのだから、どうにかして開ける事は不可能かと思われた。
 ふと、筆と硯が置かれた小さな机の上に何かが光っているのを見つけた。近づいて手に取ると、それは娘の小指ほどのとても小さな鍵だった。これほど小さいというのに、何故だか不思議と重い。そしてもう一つ、机の上には植物の蔦でできた帯のようなものが置かれていた。手で触れてみる。見る限り、カヅラの蔓だろうか。頑丈に作られている。そして何より、そのカヅラは淡く発光しているのだ。あの桃と同じように……。何やら不思議な力を感じ、娘はそれを懐へ入れた。さらに部屋を見回してみるも、それ以外特にこれといったものは無いようだった。この部屋の主が帰って来るまでに、早く退散してしまおう。娘はそう思い少し慌ててその場を後にした。廊下に出て戸を閉めると、戸が何かに吸い付くように動かなくなる。再び開こうとしても無駄だった。戸は以前と同じく固く封印されていた。


 娘はひたすら屋敷の内部を歩き回っていた。あの部屋で見つけた小さな鍵、何処の鍵なのだろう? 今まで開けられる戸は全て開けて来た。例外として二階廊下の、障子部屋には行かなかったが……。
 ここでふと、娘はとある物を思い出していた。そう、一番初めに、この屋敷で最初に居た場所。あの小さな座敷にあった、桐の箱だ。鍵が掛かっていて開けられなかったあの箱……。だがしかし、大丈夫だろうか? もしかしたら今頃あの老婆達やろくろ首が娘の不在に気付いているかも知れない。だがしかし……騒ぎが起こってないあたりそれはもう少し先だろう。行くなら今しか無い。娘は急いで今までの道を戻り始めた。廊下を出て一つ目小僧を起こさぬよう階段を登っていく。途中の踊り場で、地蔵に化けた狐の後ろにある掛け軸が目に入った。
《……従い、我らに名は必要なく、なんなれば、我らは個を必要とする存在ではないからだ。仲間となりし者も其は同様である》
 初めは全くその意味が解からなかったが今になって良くそれが理解出来る。この屋敷は、娘を仲間として取り入れようとしているのだ。名前を奪われた者は個としての存在を失い、この屋敷と屋敷に住まう妖怪達をまとめて一つの生命体として、同化してしまうのだ。山中の巨大な屋敷、『迷ひ家』として。娘は少し恐怖を感じたが、すぐにその意識を振り払い、先を目指した。
 階段を登り終えると、そこにはやはりろくろ首が座っていた。一瞬そこを通るのがためらわれたが、今は鬼の面がある。娘は無言で廊下を進んでいった。背後一間ほどまでに近づくとさすがにこちらへ気が付いたのか、体は向こうへ向けたまま、首だけがこちらを向いた。
「誰じゃ、お前は? ……ああそうか、醜女様の使いだね」
 娘の身なりを見ると、娘が語るまでも無く自ら解釈を始めた。下男というのは、その性質上かなり自由が利く。娘はほっと胸を撫で下ろしていた。ろくろ首の横を通り、廊下を歩いていく。“醜女様の使い”だと思われているあたり、あの障子部屋へ入るはめになるかと思ったが、ろくろ首がこちらを見ている様子は無い。娘はその部屋の前を通り過ぎ、すぐに座敷の戸を開けた。


 中へ入り戸を閉めると、深く息を吐いて一旦、座布団へ腰を下ろす。ここだって決して安全な訳ではなく、むしろ袋小路に追い込まれているあたり危険であるのかも知れないが、何故だかこの原点へ戻ってきて娘は安らぎを感じていた。座ったまま部屋の隅にあった桐の箱を引き寄せる。上蓋には小さな鍵穴が空いており、持っている小さな鍵とぴったり合うようだ。一度心を落ち着かせてから、決心して鍵を差し込む。右へ回すと幽かな手応えと共に何かが外れるような音がした。ゆっくりと蓋を持ち上げる。
 ──そこには、糸の解れも皺も汚れも無い、真新しい着物が納められていた。手に取って箱から出すと、その襟がはらりとはだけた。
 どうしてだか、今まですっかり忘れていた。この屋敷に奪われた名が、そこに縫い取られている。美しい刺繍で。
『ユウメ』
 頭の中に白い光が満ちていくような感覚を感じる。この屋敷に来る前の村の我が家、良く遊んでいた友達、村祭りの光景、山道、母の手……。すべてが鮮明に思い起こされ、今改めて記憶に深く刻み込まれていくようだった。娘は今着ていた麻の着物を脱ぐと、その真新しい着物に身を包む。一瞬考えてから、カヅラの帯を腰に締めた。
 脱いだ着物を入れようとしてもう一度箱を見ると、底に一つの巻物が入っていた。娘はそれを取り上げて読む。
《……竈の奥に在りし不浄の世界に、汝の魂は眠る……》
 またしても意味が解からないものだったが、どこか心に引っ掛かる感覚を覚えた。
 どちらにせよ、娘は己の名を取り戻した。個としての存在と生命を手に入れた。ユウメという名において。




〜九〜


 娘はその後再び玄関へ向かおうとしていた。すぐに影小僧へ会おうかと思ったが、松脂の玉は残り一つ。まだ何が起らないと分かった訳では無い。それに……この玉を使ってしまうのが惜しい気もしていた。あと一度しか影小僧に会うことは出来ない。娘は狐の地蔵の前を通り過ぎ、階段を降りながら思いを馳せていた。そして、先ほど、桐の箱に入っていた謎の巻物に書かれていた文章についてもどこか引っ掛かる部分があった。娘は文字の読み書きや計算は人並みに得ているはずだが、どうにも書かれていた漢字の中には読めないものがあったのだ。始めの一文字、“竈”の読み方さえ解かればどうにか意味が伝わりそうではあるのだが。
《……竈の奥に在りし不浄の世界に、汝の魂は眠る……》
 何の奥なのだろう。もしかしてこの屋敷のことでは無いのだろうか。
 娘は階段を降り切って、ふと考えた。何かが思考に引っ掛かっている。もうすぐでその答へ到達しそうな思い。何処の事だ? この屋敷の内部はほぼすべて見て回っているはずだ。この屋敷内にあるのならきっと何処かで見ている。必死に頭の中で考えた。自らの名は手に入れたし、十分屋敷を脱出する手筈は整っている。むしろ今すぐに屋敷を飛び出さなければ、妖怪達に娘が抜け出している事が知られてしまうだろう。だが、このまま帰る訳には行かないという、不思議な勘が働いていた。まだ何かやり残している。何かは解からないのだが……。
 何処か、今まで見てきた何処かに不審な場所があったような気がした。何処だっただろうか。深く記憶の中を探っていた。そう……確か、その場所には風が吹いていた。それを娘は不審に思ったのだ。吹いてくるはずの無い場所から風が吹いてきたから。どの部屋だろう。今まで歩いてきた道を良く思い出してみる。座敷、廊下、階段、廊下に、厠。また次の廊下へ出てから台所へ。
 娘ははっと気付いた。……台所だ。台所の、そうだ。かまどの内部から吹く風がその炎を揺らしていた。何故、かまどの内側から? そう、かまどの奥に何かが存在しているから。娘は左に見える台所の格子戸を見やった。


 台所へ入ると、真っ先にかまどを見つめる。そこにはまだ火が燃え残っていた。鬼の面を外し少しだけ顔を近づけて内部を覗くと、確かに僅かな風を感じる。奥の方は真っ暗で何も見えないが、確かに何か空洞があるようだった。娘は立ち上がり部屋を見回す。調理場の上に置きっ放しにしてあったあの即席の釣瓶を手に取って、裏庭へ出る。
 急いで井戸の中へそれを投げ入れ、引き上げる。井戸から一杯の水を汲み上げると、娘はその釣瓶を持ち台所へ戻った。少しの間考え、やがて思い切ってかまどの炎へ水をかける。一瞬だけ水が蒸発する音がして、薪は水に濡れて炎は消えてしまった。娘は身を屈めてその内部を見てみる。かまどは少し熱を持っているが、大丈夫。入れそうだ。濡れた灰にまみれた燃え滓を手で除け、なるべく着物を汚さぬよう慎重にかまどの中へ顔を突っ込んだ。内部はどうやら長く掘られた横穴のようで、まだしばらく先がある。娘は半ば這うようにしてかまどの奥の洞穴へ入っていった。
 横穴は左右の壁が狭く、娘一人通るのがやっとの状態だった。硬い岩盤に穴を空けたようで、周囲はすべて湿った岩に覆われている。ふと、娘は洞穴を進んでいくうちに、その行く先に小さな灯りがついているのを見た。
 急いで洞穴を走り出し、その灯りへ駆け寄る。そこは横穴の最深部らしき行き止まりで、少し広まった丸い部屋のようだった。灯りは岩盤に取り付けられた提灯の炎だったらしい。炎は燃え尽きる事が無いかのように強い輝きを放っていた。洞窟の奥を照らし出し、娘はその足元に一枚の小さな守り札が落ちているのに気が付いた。
 拾い上げて、灯りにかざし見つめてみる。泥に汚れた中、幽かな文字が見えるような気がした。
 ふと、娘は懐から巾着袋を取り出して最後の松脂を手に取った。何故そう思ったのかは知らないが、目の前の提灯にそれを投げ込む。炎は激しく燃え、背後に伸びた影から声が聞こえる。
「やあ、どうしたんだい」
 娘は少しの間黙って、首を左右に振った。ふと、影小僧が娘の持っている小さな守り札に顔を向ける。
「……これは、何? 文字が書いてあるね……おいらは文字は読めない……いや、読める……。少しだけ、読めるところがあるね」
 娘は慎重に守り札の泥を払う。そこに書かれていた文字は、
《ヘイタロウ》
 娘は小さく声に出して読んだ。すると、影小僧が声を上げた。静かに、しかし何かの哀しみをたたえた声だった。
「そう、ヘイタロウって読むんだ、これ……おいらの名前……ずっと忘れてた……」
 娘は顔を上げる。足元の岩盤に描かれた影の漆黒が、段々と薄くなった。やがてその形が、娘のそれから別の人間のものへ変わっていく。そこに居たのは、深緑の着物を着た、娘と同じほどの年の、少年だった。
「影小僧じゃないよ……平太郎、なんだ」
 目の前の少年は、じっと娘の顔を見つめた。
「ありがとう、名前を取り戻してくれて。おいらも、君とおんなじだったんだなあ……。でも、これで、おいらはヘイタロウとしていける……」
 ふと地面に映った少年の影が揺らめいたような気がした。顔だけ後ろを振り返ると、提灯の中では松脂が今にも燃え尽きようとしている。少年も、その様子を黙って見ていた。
「おいらも一緒に行きたかったけど、別々になっちゃった。もう助けてあげられなくなるけど、ごめんね。でも、もうここから抜け出せるはずだよ。さあ、おいらも君も行かなきゃ……」
 娘は慌てて地面に屈んだ。少年に触れようとするが手にはただ真っ黒な泥が付いただけだった。影には触れられない。目の前の影は今にも消えてしまいそうだった。少年が、哀しそうな笑みを浮かべると、その姿は段々と失われていき、やがて、ただの影となった。娘の形をした、娘の影へ。もう自らは動く力を失くしたそれは、ただただ提灯の光を遮る、娘の姿を投影していた。何処かから声が聞こえてきた。洞窟内部に静かに反響して、消える。
「さようなら、ユウメ」


 娘はその後しばらくの間横穴の奥に佇み、ただじっと自分の影と、守り札を眺めていた。だがしかし守り札と空になってしまった巾着袋をそっと地面へ置き、やがて顔を上げて横穴を這い出る。台所へ戻ると、娘は着物に付いた土を払って、顔に青鬼の面をしっかりと付けた。廊下へ出ると、一つ目小僧の前を静かに通り過ぎ、さらに襖を開けて廊下の方へ。見張りの子鬼のすぐ横を通り過ぎると、玄関の戸を開けた。
 鬼の面を外して、深く息を吐く。面を床に置いて玄関の外を覗く。暗闇の中に細い砂利道が続き、その果てには橙色の光が夜空の星の様に輝いていた。一度呼吸を整えて、玄関の外へ歩み出した。素足で触れる地面の石は冷たく、凍えるようだった。
 屋敷を出た瞬間、背後で玄関の戸が閉まる。
 娘は驚愕した。そこは、この砂利道は、母と最後に歩いていた、あの阿木穂山の山道だった。道の左右には石灯籠が置かれているが、今は火が灯っていない。後ろにそびえ立つ屋敷を一度振り返り見つめると、娘は砂利道を歩き出した。石灯籠の横を通ると、独りでに火が灯る。あの時見た灯篭の炎と全く同じだった。
 少し進んだ所で、背後から何かが吠えるような音がした。慌てて後ろを振り返ると、あの大部屋で見た牛鬼が屋敷の入り口の格子戸を跳ね飛ばし、怒り狂ったように咆哮している。さらにその後ろから一つ目小僧。娘をここへ連れて来た老婆と、もう一人の黄泉醜女。女郎蜘蛛とろくろ首まで、屋敷に居た妖怪達が湧き出るようにして屋敷から出てくる。娘は思わず走り出した。それを見て背後の妖怪達も娘を捕まえようと追ってくる。
 周囲を暗闇に包まれた砂利道を、必死に駆けていく。左右の灯篭は次々と光り輝き、その道を照らし出す。
 娘は後ろを振り返った。後ろ五間ほどにもう牛鬼が迫って来ている。あと少しもしないうちに取り捕まえられてしまうだろう。娘は慌てて着物の帯、屋敷で拾ったカヅラの帯を解くとそれを背後へ投げつけた。砂利道へ落ちた途端にそれは光り輝き、一瞬のうちに地面のカヅラが成長し、巨大な葡萄の蔦が次々と生えて妖怪の足に絡まり動きを止めた。娘はその隙に走り出す。
 再び砂利道を全速力で進んで行くと、後ろでは葡萄の蔦を乗り越えた妖怪達がさらにこちらを追ってくる。娘は何か投げる物を探した。ふと懐を探ると、裏庭の井戸で拾った美しい櫛が手に触れた。慌ててそれを投げると、櫛が地面に触れた瞬間、その場に筍が生まれ、それは瞬く間に成長を遂げ幾つもの青竹となる。恐ろしい勢いで生え出したその竹に妖怪の一部は串刺しとなった。後に続く妖怪達も竹薮に阻まれ、一旦足を止めていた。
 娘は、砂利道を走る度に全身に痛みを感じていた。全ての関節と筋肉がずきずきと痛み、今にも自分の身体はばらばらと崩れ落ちてしまいそうだった。半ば足を引きずるようにして走る娘の背後で、竹薮がばきりと折られる音がした。後ろでは、なお妖怪達が娘を取り押さえようと躍起になって追いかけてくる。娘はまた急いで投げつけるものを探した。懐の中には、あとたった一つだけ、桃が残っていた。暗闇の中で淡い輝きを放つ桃を、妖怪達へ向かって思い切り投げつけた。
 桃は空中でその光を増していき、妖怪達の目の前へ落ちていくと、太陽よりも強く爆発のような輝きを放出した。その光に打たれたように妖怪達は叫び声を上げ、光に身体を焼かれて激しい炎を上げた。背後の砂利道は恐ろしい劫火に覆われ、赤黒い火焔は暗闇を焼き尽くしていった。
 娘はそれを後にしてゆっくりと足を進めていった。足はまるであの火焔に焼かれたかのように熱く痛み、娘は地面に倒れこむ。這うようにして砂利道を進んでいった。背後では巨大な炎が今でも燃え盛っている。必死に砂利道を進んで行くと、その先にはあの橙色の光が今までより強く見えていた。娘はそれをじっと見つめるが、やがて光は水の波紋のようにゆらゆらと揺らめき、最後には消えてしまった。






〜十〜


 ──これは、私が昔、まだ子供だった頃の話です。この後、私は見慣れぬ場所を彷徨い歩き続け、気が付けば一本の道の上を歩いておりました。辺りはいつの間にか暗闇から放たれ、美しい大きな満月が空に昇っていました。そして、いつしか水の流れの音を聞いていたのです……。
「ここ……村ざかいだ」
 その時私は村境を流れていた細い川から何かが流れて来るのを見ました。あの砂利道がある、阿木穂山から流れてくる川です。
「……なんだろ? おわん?」
 訳の分からないまま、私はそれを手に取って、持って行きました。後で思えば、それはあの屋敷で見かけた立派なお椀と良く似ていたと思います。


「……まだ、間に合うかしら。……あの子、私が来るのを待ってるかもしれない」
「……よせよ、辛気臭い」
「でも……」
「もう遅いんだ。お前だって納得した事じゃないか」
「でも、やっぱり……」
「あの子はもう山の神さんのものなんだ。帰って来ないんだよ。諦めろ。それにもし帰って来られたら、お社に連れていかずに隠してたんじゃないかって疑われる。それで俺たちみんな村八分だ。ここじゃ生きていけなくなる。分かるだろう?」
 その時玄関の戸を、私が叩きました。
「……こんな夜遅く、誰かが来る訳ないだろう。風だよ」
 父の言葉を気にせずに、母が玄関へ向かって来ました。そして、戸を開いたのです。
「おい! …………どうした?」
 父母は揃ってとても驚いたような表情を浮かべていました。それもそうです。二度とこの家へ帰ってくるはずの無い、自分たちの娘がそこへ立っていたのですから。
「ただいま」
「……おかえり。……おかえりね、本当に!」
「お、おい、本当にユウメなのか?」
「本当に…………もう、どこにもやらないからね!」
 本当は、また山のお社へ私を連れて行くのが一番良かったのでしょう。しかし、両親はそうしませんでした。
 その年は、私たちにとって辛い年になりました。私はせいぜい遊び仲間から外される程度でしたが、父母への村からの風当たりは強く、逃げ出さざるを得ない一歩手前だったようです。
 風向きが変わったのは次の年のことです。私の持って来たあのお椀に、いつの間にか種もみが溜まっておりました。半信半疑でそれを使ってみると、それは面白いほどの豊作となったのです。それが元となって私たちの村八分はあっさりと解け、取れた種もみを分けて欲しいと頼みに来る人たちが続出しました。
 その後、私は三浦恭介という夫のもとへ嫁ぎ、姓を伊藤から三浦へ、三浦夕目と改めました。当時貧しかった夫の家もお椀の種もみによって繁盛し、今では村で一番大きな畑と家を持っています。
 もう、大分昔の話です……。


 阿木穂山の山道はもう少しで日が落ち、暗闇に包まれようとしていた。灯篭のぼんやりとした橙の火に照らされた砂利を草履が踏み付ける。砂利道の左右に生える竹林は夜の風に時折揺れ、葉がかさかさと音を立てている。歩く人の影は、灯篭の日と共にたゆとい、ゆらゆらと不思議な幻影のように幾度も形を変えていた。
 一人の少年が砂利道を走って来た。後ろを振り返り大きな声を上げる。
「はやくはやくー! ……ねーもう、はやくってばあ!」
 遅れて、その後ろから少年の母親が歩いて来た。その手を掴み、息子は嬉しそうに引っ張っていった。
「いこ、いこ!」
「こらこら、あまり急がないの。転んだら、新しい服、汚れちゃうでしょう」
「服なんてどうでもいいもん。だっておまつり、終わっちゃうよお!」
「そんなに早く終わらないわよ」
「終わっちゃうよ!」
「もう……」
「じゃあ僕、先に行くよ!」
 息子は母の手を離して、一人砂利道を走り出した。母は微笑んだまま溜め息をついたが、ふと恐ろしい思いに駆られた。
「待って!」
 少し先で息子はこちらを振り向き、きょとんとした表情で母の顔を見つめていた。母は息子の元へ走り寄り、しっかりとその小さな手を握った。
「一緒に行きましょう。ね?」
「……うん」
 今度は、二人揃ってゆっくりと砂利道を歩いていった。夕暮れの太陽は橙色に強く光り輝き、もうすぐ山を闇に染めようとしていた。一人の息子と、その母が手を繋ぎ夜道を二人歩いていた。
「お母さんの手を離さないでね、平太郎」
 その手は、互いにしっかりと握られ、離れることは無かった。永遠に。


inserted by FC2 system