君の家への蝋燭




 ──ああ、ひどい姿だ。自分の趣味の服でもないのに、服が汚れているのを見ると怒る。でも、今ならどうだろうか。何も言わないかもしれないな。
 今日は、夕方からひどい雨が降ると天気予報が言っていた。たった今、現にそうなのだが、雨が降り始める五時まではずいぶんと静かだった。


 僕は部屋で一人、本を読んでいた。太宰治の『走れメロス』。何て事は無い。本棚から適当に取って読んでいただけだった。スピーカーから流れる、音質の悪いヴィヴァルディの楽曲がそのうちに煩わしくなって、僕は本に目を向けたまま後ろのテーブルの上にあるリモコンに手を伸ばした。
 だが、手に触れたのはリモコンじゃなくて……、何か変な感触のものだ。しかも何故か熱い。僕は振り返った。


 ──蝋燭だ。


 僕は驚いて手を引っ込めた。小さな炎が揺れて一瞬、細い煙が立ち昇る。蝋燭──君は頑固に『アロマ・キャンドル』と言い続けた──から放たれるむせ返るような花の香り。リラクゼーションだか何だか知らないが、僕には合わないと思った。


 この蝋燭は、君がいつだったか買ってきてそのまま僕の部屋へ置きっ放しにしていたもの。君自身忘れてるのかもしれない。全然使おうとしないし、持って行こうともしなかった。僕が勝手に火を付けてしまっているが、多分気にしないだろう。


 僕らの関係はもう切れてるんだ。もう彼女はここに戻ってこないし、このキャンドルを取り返すために、僕に会いに来る事なんて無かった。


 時々窓ガラスに風がぶつかって、かすかな音を立てる。蝋燭の炎はほんのわずかなすきま風を受けて、絶えずゆらゆらと揺れていた。
 僕はステレオのリモコンを取って、ヴィヴァルディを止める。途端に部屋の中が静かになったような気がした。いや、気のせいじゃないな。聞こえるのはガラスが動く音だけだ。それ以外は何の物音もしない。蝋燭の匂いが立ち込めて……、部屋は満たされつつも空虚な、不思議な空間になっていた。


 君がいないと家の中が静かだ。別に寂しいって訳じゃないけど……、そうだ。安息の時が訪れたと言ってもいい。ようやく、こうして読書をする時間が得られた。二人で一緒にいる時はそういう時間が少しも無かった。僕も君も、互いに相手の事しか考えていなかったからだろうか──。でもやがて君が、ようやく自分の事を良く考えて見た時にそれに気づいた。互いに、無意識下で束縛していたのかもしれない、と。
 別に僕と君とで、相手の事を嫌いだと思っているような事は無い。少なくとも僕の方はそんなこと少しも思っちゃいない。ただ、二人は『少し離れていた方が良い』存在であるってだけだ。
 僕もほんの少し、君を想い続ける事に疲れていたから、君がそういう話を切り出した時に、それほど反対はしなかった。もしかしたら俗に言う、自然消滅なのかもしれない。僕にも良くは分からないんだけど。


 でも、もう二週間くらい君の声を全く聞いていない。メールもしていないし……、もちろん顔だって見ていない。それまではまるで同棲してるみたいにいつも二人で互いの家にいたりした。この二週間の間、僕は久しぶりに一人だ。


 そう──、古い歌だけど、槇原敬之の『もう恋なんてしない』って歌を思い出した。僕と君の想いがすでに少し冷めてしまってるのが難だけど、その歌に少し状況が似ている、と僕は思った。一人の生活にちょっと戸惑っている。何でもできる、ってことは同時に空虚だってことなのかもしれない。


 僕は椅子から立ち上がって……、なんだか笑った。別に何か可笑しいことがあった訳じゃないけど、何故か笑えてしまった。
 そう──、何で僕はこんなに君のことばっかり考えてるんだ? 二人の関係はもう終わったも同然じゃないか。僕はそれに納得してたじゃないか。君はもうこの家に戻ってこないじゃないか。君のものは、もうこの家に無いじゃないか。
 君は、もう僕の記憶の中にしかいない。もう出会うことなんて多分、無いだろうから。今、机の上で暖かな光と、花の香りを放つ蝋燭が燃え尽きてただの蝋の残滓になった時、僕と君の繋がりは完全に消え去ってしまうんだ。


 ──僕は黙って蝋燭の火を眺めた。本に栞を挟んで、ただじっと炎が揺れているのを見つめる。黄色の立方体の蝋燭は段々と熱で融けていき蝋が表面を雫のように垂れていった。僕はふと思った。
 この炎が消えてしまうのが怖い。
 蝋燭が煙になってしまうのが怖い。
 君が僕に残した、最後のものが今もうすぐ融けてなくなってしまう。


 ──今さら君を引き止めたいって言うんだろうか? 自分でもどうかしてるとは思ったけど、今さらどうにもならないのは分かってる。でも──このままじゃ後悔する気がした。僕にはまだ一つだけ、残されたものがある。君のものが、まだ一つだけ僕の家に置いてある。僕と君とは、まだ完全に断たれていない。小指一本ぶん、木綿糸一本ぶん、髪の毛一本の細さかもしれない。そしてその繋がりはもう少しで燃え尽きてしまう。


 行動するなら、今しか無いと思った。
 僕は慌てて部屋を出て行って、夕方に雨が降ると天気予報が言っていたのは気にせずに、着の身着のままで家を飛び出していった。
 走っていくうちにやがて大粒の雨が降ってきて、服と髪が濡れていく。君の家までもうすぐだ。あの蝋燭が、消えてしまう前に君に会いたい。どちらが先かは分からないし、今蝋燭が消えてしまったかどうかなんて、僕には分からない。でも、走るしか無かった。


 君はびしょ濡れの僕を見て、何て言うだろう?
 優しく僕を叱る声がたまらなく愛しかった。








〜あとがき〜

どうもー碓氷須羅です


「君の家への蝋燭」のお題で書いたリレー小説にリベンジを挑んでみたんですが
思いの他きれーにまとまった感じになってます。
実際はがんばって終わらせた雰囲気なんですけど。


私はどうもアロマキャンドルとかお香とか好きになれないんですけど
好きなひともいますからねー


いやいやそういう話を書こうと思ってたわけじゃないんですが。


文中にいろんな固有名詞が出てきてるのは
「現実っぽい」のを出したかったせーです。
でもなんとなく「もう恋なんてしない」みたいな世界じゃありませんか。


主人公は彼女に会いに行っちゃってますけど。
どっちにしろ男のほうが女々しい展開ですね


この後二人の関係はどうなったんでしょうね?
うーん気になる、でも知らない方がいい気がしてきた(笑


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